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そのねこがうたうとき

物語偏愛者の詭弁と戯言

ノート? 取るだろjk

働くこと学ぶこと

 ノートを取るというのはインプットではなくアウトプットの過程なのだから、そんな作業に情熱を傾けるのは、以下に挙げる2タイプの数少ない学生だけだろう。まず、授業に出ただけで勉強した気になる勉強下手な学生である。(中略)次に、聞いた瞬間にすべてを理解してしまって、やることがないのでノートを作るという純粋な趣味人である。(略)

Business Media 誠:現役東大生・森田徹の今週も“かしこいフリ”:東大生のノートは本当にキレイ? いや、そもそもノートを取ってない (1/4)

これはうちの大学だけの話なのかもしれないけれど、この文章にあまりに違和感があったので思ったことをつらつらと書いてみます。一応言っておくと、僕が通っているのは東大ではないです。「シケプリ」なる学生救済制度もないので、「シケプリあるからノートいらないじゃん」という手段も取れないところです。あしからず。

ノート≠アウトプット or インプット

まず、ノートを取るのはアウトプットの過程でも、ましてやインプットの過程でもありません。そもそも授業中にすでにアウトプットの段階までこぎつけるなんてことは不可能です。何故ならばインプットさえ、まだままなっていない段階ですから。このあたり、さすが東大生というのか何というのか。

ではノートを取る=インプットなのかというと、それも違うと思います。もちろん、いくらかインプットの役目を担ってはいるでしょうけど、一度書いたくらいでは覚えられないことの方が多いからです。というより、記憶するためにノートを取っているわけでもないので、ノートを取ることをインプットと定義することには違和感があります。

二段階のインプットを踏むためのノート

授業はあくまで、授業内容のインプット完了を目指し始める第一段階の場だというのが自分の認識です。第一段階と言ったのは、先程も言いましたが、授業だけでは内容を完全にインプットし切ることができないからです。一度ザザッと話を聞いただけでは、その内容を完璧に把握することはまずできません。書いてもまだ不安ですし、仮にそこで覚えても試験まで覚えているとは限りません。なので、どうあがいても第二段階のインプットとして、帰宅してすぐなり*1、試験前なりに再度授業の内容を反復してなぞっていく必要があります。

ノートはすなわち、この第二段階のインプット過程(=復習)において、授業を今一度再現するために取るものです。つまり、インプットのさらに一歩前の段階。もちろん、復習には教科書や配布されたレジュメも使えますが、これらはいずれも完全に授業内容とは一致してない場合が多く、そのままでは使い物になりません*2。ノートを別で用意まではしなくとも、教科書の隅やレジュメの余白に書き込んでおき、あとで読み返したときに「あー、授業でこういうことやったなー思い出した」と言えるようにしておくことが必要です。

自分がわかればそれでいい

よって、少なくともうちの大学においては、ノートを取る人は「勉強ベタ」と「神」だけではありません。というより、彼の定義する「勉強ベタ」というのはうちの大学の学生みたいなのを言うのかもしれません。

 授業に出ただけで勉強した気になる勉強下手な学生である。もちろん、1から復習しなおすので恐ろしく非効率だが、この手の輩で東大に入るような人々はすべからく異常な勉強時間なので、確かに成績は悪くない。

そりゃ1から復習し直しますよjk。そのためのノートです。授業だけですべてわかってしまう人の方が稀ですって。違うのかな?

ノートは特に綺麗である必要はないと思いますし、取り方を巡ってあーだこーだ言う必要もないと思います。自分が後で見直したときに、授業の内容をぱっと思い出せるノートであるなら、それだけで十分でしょう。

*1:その日のうちに復習する学生は稀だとは思いますけど。

*2:中には「虫食い」のレジュメをわざわざ用意してくる教員もいる。