小説はデータなのかが疑問なら、ブログはどうなるんだ

毎日新聞の「時代の風」というコラムの中で、作家の桐野夏生さんがGoogle Book searchに関する個人的な見解をまとめていた。ちょっと思うとこがあったのでメモ程度に書いとく。

どうせリンクしても後で消えるから新聞社サイトって嫌なんだが、仕方ないので以下重要なとこを引用。彼女は「専門家ではないので的確な説明ができるとは思えない」としたうえで、こう述べている。

 私は不安と当惑でいっぱいである。例えば、スキャン。版面は著者の物ではない。編集者やデザイナー、印刷、多くの人間が関(かか)わって作るのだから、乱暴過ぎる。その方法も極めて粗雑だと聞いた。さらには、著作のプレビューは、全体の二十パーセントに過ぎないらしい。


 小説は、時間を伴う芸術だ。最後まで読まれなければ、作品を読んだ、とは言えないのに、二十パーセント程度で読んだつもりになる輩(やから)は増えるだろう。


 そこで、小説は果たしてデータなのか、という大問題に突き当たるのである。言語で成り立っているのだから、データ化はできる。だが、小説がデータに過ぎないと思えば、いずれ文脈を無視して、言葉だけが一人歩きをする可能性もある。

時代の風 - 毎日jp(毎日新聞)

ブロガーとして思うのだが、「最後まで読まなければ読んだとは言えない」のは小説だけなんだろうか。ブログのエントリーだって本当なら最後まで読むべきだ。だけどはてブでよく指摘されているように、中にはちゃんと読まずに脊髄反射的なコメントだけ残していく人が少なくない。それでもブログは、「データ」として流通している。

今の書籍状態の小説が、ちゃんと最後まで読まれているのかも疑問だ。中にはザザっと斜め読みをして楽しむ人もいると思う。さすがに「二十パーセント」で読んだ気になるような小説読みはいないだろうが、誰もがきっちり最初から最後まで読んでいるのかというと、実はそれも危ういんじゃないか。

また現に最後まで読まない人がかなりいたとして、それを小説を提供する側である作家がとがめる権利があるのかというと、それもまた微妙だと思う。芸術の楽しみ方は人それぞれだし、お金を払って買った時点で、その本は購入者のものと考えるのが妥当。最後まで読まれないことに違和感を覚えたり、危惧を覚えたりするのはわかるのだけど、読み手の楽しみ方を縛ることはできないと思う。

あと「小説はデータなのか」問題にしてしまうと、青空文庫が危ういんだよねェ……。確かに装丁やら何やら込みで、小説は一冊の「本」という芸術品であるとは僕も思う。でもその中に書かれている、小説というコンテンツはどう扱うべきなんだろう。スキャンというやり方をやめ、Book searchに掲載するのはあくまでコンテンツ=本文のみにすればいくらかすっきりするとも思う。うーん、難しいな。


僕は暇つぶし程度にしか読書はしないので、あまりこの問題に関心はないのだけど、なぜか書きたくなったから書いてみた。前回のエントリーに書いた姿勢を追従する意味もある、かな。