読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

そのねこがうたうとき

物語偏愛者の詭弁と戯言

なぜ僕はブログを書きたいと思うに至るのか

ブログ

書くことの快感

たぶん、書くことそのものが快感なんだよなァ。そのメカニズムや具体的な理由だとかを説明はできないんだけど、「書く」こと自体が気持ちいい。ネタがないときでも、「ブログ更新したいなーうずうず」という欲にかられるときがあるのだが、それは他でもない、「何か書きたいなーうずうず」と言い換えられるのだ僕の場合。ポメラを買ってしまい、ベタボレしているのも、「どこでも書いていたい」という僕の欲望の顕れと解釈できる。

関連:ポメラかわいいよ、ポメラ - 一詩人の最初の歌

なんだろう、自分の内にあるものを吐き出す過程が心地よいのだろうか。思えば合唱をやっていたときも、「外に出す!」って感覚がすごく好きだった*1。歌うことは、自分の内的エネルギーを音という形に昇華する作業に思えていた。

思ったこと、考えたこと、感じたこと、あるいは自分の中にたまったストレスやプレッシャー。それらを溜めておくことは不快だ。例えるなら谷川俊太郎氏の「春に」。

声にならない叫びとなってこみあげる この気持ちはなんだろう

溜めておくことが不快で、だからこそそれを「出す」ことに快感を覚えるのかもしれない。声にならない叫びを、声に具現化して放出するのだ。

createとexpressと

で、僕の場合外に出す行為の多くはcreateではなくexpressだ。合唱は言わずもがな、ブログも創作というよりは表現活動だろう*2。例外もあるが、往々にして無から有を生んでいるわけではない。有から何かインスパイアされて、また別の有を生む作業が僕のブログだ。

僕はたぶん、あまり創造性のある人間ではない。そしてときに、そのことが無性に悔しくなる。自らの手で何か新たなものを生み出すことができる人に憧れる。つい先日も、ニコ動によくPVを上げている絵師のあたたたPが、僕と一学年しか変わらないってことに気付いてちと衝撃を受けたところだ。こんなに意欲的に創作している人に比べ、僕は何一つ生み出せそうにない。

あたたたP参考動画

それでも僕は、何かを「外に出したい」。createが出来ないならば、expressするしかなくなる。表現はその字面通り、僕が僕を表すために持ちうる唯一の手段だ。

世のブロガーを始めとする表現者が、どういう心づもりで表現活動を続けているのかはわからない。人によっては苦痛なのかもしれない。人によっては表現ではなく創造なのかもしれない。あるいは別の目的を達成するための手段かもしれない。

僕の場合、ブログを書くことそのものが手段であり、また同時に目的でもありうるというのが、他のブロガーと少し違う点なのだろう、と思う。それはまた、こと表現に関して何らプレッシャーや制約を課されることのない、ブロガーならではの楽しみ方でもあるだろう。こういう形の「物書き」でいられることは、至極幸せなことだと僕は思う。

表題への答えだが、青臭いことを言えば、僕にとって表現することは生きることと等価値なのだ。それが自分の存在を客観的に証明するものとなりうるから。内面だけで完結する主観的な自己だけでは、あまりに物足りないのだ。だから僕はブログを書くのだ。

クリエイトと呼んで何が悪い!

>でも、その企画の最後に、ニコニコ動画のそんな世界が、
>新しい表現というものが出尽くした時代における、僕たちの世代のクリエイティブなんです、
>ということが描かれていた。
>僕やその上司からみれば、それは「クリエイト行為」ではなくて、
>できあがったルールとインフラの上で生まれた「消費」としか映らない。

東のエデン監督「今の若者はニコ動でクリエイトした気になっている」:VIPPERな俺跡地

プロに何と言われようが、何かを生み出したい欲求を持つアマチュアは数多くいる。「ニコ動レベルのクリエイト」さえ僕は羨み、一段階下のレベルでしか自分を見ることが出来ずにいる。だが僕が「表現」と呼ぶブログであっても、それを「創造」と呼ぶ人がいておかしい道理はない。

クオリティが例え低くとも、お金は稼げないとしても、それを「創造」と呼ぶことを、誰が咎められると言うんだろう。僕らが「創造」する権利を欲することを、誰が否定すると言うんだろう。ニコ動という場で、誰もが創造性を発揮できるのなら、それは素晴らしいことじゃないか*3

ま、このスレ自体は釣り記事だったようだけどね。

参考:Not found.

*1:関係ないけど、今年の「出版甲子園」のキャッチコピーが「外に出せ!」だった。

*2:あくまで僕の捉え方では、の話だが。

*3:もちろん、そこからプロのレベルへと這い上がれるなら、それはさらに素晴らしいことになりうる。