多言語話者としてのクリエイター

クリエイター、というか何かしら創作活動に従事している人たちへの憧れのようなものは昔からある。別にそれで食べていきたいというわけではなく、漠然と絵が描けたら面白そうだなとか、曲が作れたらなーなどと思っているだけで、それを実現するための努力すらロクにはしていないのだけれども。どちらかというと曲を作るより、歌っている方が僕は楽しいだろうという気もしますし。ただ、じゃあその「憧れ」という感情はどこから来るんだろう?ってのがずっと疑問ではあったんですね。

当初はあたかも「無から有を生み出す」ようなその生業に憧れているんだと自分で認識していました。与えられた仕事を単にこなすのではなく、自分から価値を生み出せるような存在が羨ましいのだと。でも、どうも違うなと最近になって気付いた。僕はおそらく、彼らが「常人より多くのアウトプットのチャネルを持っている」ということが羨ましいんだと。

多くの人が持っているチャネルはおそらくただ一つ、言語のみ。でもクリエイターは、絵画なりデザインなり音楽なりという形で、言語とは別のチャネルで自分の内面を表現することができる。それだけ多様なコミュニケーションの手段を取ることができる。それが羨ましいわけです。例えば英語の書物を1対1対応させて完全に日本語に翻訳することが不可能であるように、言語と音楽も、また言語と絵画も相互に翻訳不可能なもの。彼らは彼らにだけ許されたチャネルで自分をアウトプットできる。なんと羨ましいことか。いわば、クリエイターってのは多言語話者と同じ状態にあるのだと思うのです。

そしてこれは推測になるけれども、しばしば言語が認識に影響を与えると言われるように、アウトプットのチャネルを複数有することもまた、その人の認識に影響を与えるんじゃないだろうか。いや、こう言うと大げさに聞こえるけど、世界を表現する手段が一つ多いのならば、世界を一つ別の角度から捉えられるとは考えられないだろうか。表現のチャネルを獲得することは、自分の身体感覚を拡張することに等しく、そしてそれは世界を広げることに等しい。

今のところ、僕が自信を持って「有している」と言えるチャネルは言語だけしかなくて、生み出せるものはせいぜいこのブログ程度。言語ってのは偽りやすいし、上辺だけ綺麗なことを書くのは至極簡単だし、僕のようなレベルだと、結局はタダの「戯言遣い」に行き着いてしまうのが関の山って気がする。もっと、他の手段でも自分を表現できたら、世界を捉えられたらいいのにってのは、大人になってしまった今でも考えるし、そのための努力を始めるには、まだ遅くはないのだろうとも思う。