「普通の人」として生き続けることの困難

「普通の人」の定義は様々あるだろうけど、例えば朝6時半に起きて9時には会社に到着。ビルの1階に出店しているコーヒーショップで朝御飯を調達し、メールチェックから1日がスタート。7時間半働いて17時半に定時を迎えるけれど、毎日平均して1時間半は残業。その後家に帰る途上で牛丼屋に立ち寄り、ワンコインでお釣りが来る値段で夕飯を済ませる。帰宅してからは風呂や洗濯を済ませ、テレビやネットを1時間程度楽しんで24時過ぎには就寝……なんてのはこの国における「普通の人」の生活の一例として受け入れられるのではないか。

この「普通の人」の生活を、何の困難もなく40年続けて人生を謳歌できる人はどれほどいるのだろう、などとふと思う。僕は実際朝にすごく弱くて、特にここ2週間ぐらいは起床から家を出るまでに20分ちょいぐらいしかラグがない、ちょっと余裕のない生活を送ってたりする。そんな僕の眼からすれば、毎日きちんと9時には会社にいる生活を40年も続けるなんていうのは、なかなか人並み外れた所業に思えてしまったりする。

「普通の人」としてのイメージが広く共有されているからには、確かに多くの人が「普通の人」としての生活を送れているのかもしれないけど、一方で僕のように「普通の人」として生き続けることに困難を感じている人も少なくないんじゃないか。まぁ朝起きるのが辛いですなんてのは些細なことかもしれないけど、誰もが出来て当然であり、誰もがクリアできるはずの水準と思われていることが、よくよく考えてみたら実はかなり高い水準だった、なんてこともあったりしないのかな。「普通」というイメージはもう陳腐化してしまって、省みられることすらロクになかったりするのではないか。

今の時代、「普通の人」が「普通の人」としてのレールを外れてしまうことは少なくないのだろうけど、一方で「普通ではない人」がなんとかして「普通の人」のレールに載りたいと願うこともあると思う。「普通の人」の水準に対するコンプレックスを持っている人々が、どうにか人並みの生活を維持していくにはどうすればよいのだろう。先のエントリーの本筋にはあまり関係ない話だけれど、読みながらそんなことを考えた。

ダメ人間というのは、案外多く存在しているんじゃないだろうか。本当は2時間もまともに椅子に座っていられないとか、本当はスーツを着ているだけで吐き気がするとか、そんな人たちが我慢に我慢を重ねて「普通の人」をなんとか演じていたりすることは、実はありふれているのではないか。彼らが生きていくためには、そのまま40年間我慢を続けていくか、あるいは我慢をする必要のない別の生き方を見出していくしかない。

ここに書いていることはすべて抽象論だし、何のソースもない妄想のような話なんだけど、「普通」であるとはどういうことなのかと、一度問い直してみる意義はあるんじゃないだろうか。