「ほんのまくら」フェアで、小学生の頃がフラッシュバックした

昨年大好評だった、あの「ほんのまくら」フェアが帰ってきます! | 本の「今」がわかる 紀伊國屋書店

小学生の頃の読書感想文が苦痛じゃなかった子供なんていないだろうと思うんだけど、俺なんておそらく一度もまともに書いたことがないんじゃないかと思う。あの頃はズッコケ3人組すら読まないレベルの重度の読書嫌いで、読書はただの面倒な行為としか思っていなかった。そういう子供にとっては、そもそも「本を選ぶ」ことすら難しい。面白い本を読んだことがないから、どの本を選れば良いのかわからない。夏休み前日の蒸し暑い昼下がり、図書室で課題用の本を選ばされる時間が、何よりも苦痛で仕方がなかった。

そんな俺が知っていた、唯一の本の選び方が、「冒頭の一文を読んで、続きを読みたくなったものを借りる」というものだった。どこでそんなことを教わったのかは覚えてないが、当時の自分に頼れるものはこれしかなかった。何せ本のジャンルもわからなければ、作家の名前も知らないのだ。かと言って、ズッコケなんかで感想文を書けるはずもなく。だからあの日の俺は、片っ端からパラパラと本をめくり、「運命の一文」を探して歩いていた。まるで泥の中から宝石を探すように。やっとピンと来る一文を見つけたときの安堵感というのは、途方もないものだったと思う。俺はいまだに、あの夏に読んだ宮澤賢治が好きでたまらない。

あれから10年以上が経ち、いつの間にか活字が無くては生きられないような身体となり、本の選び方もすっかり変わってしまった。SF、伊藤計劃西尾維新、イギリスのミステリー、etcetc。俺はもう宝石を探すための「地図」をいくつも手に入れていて、迷うことなく次の一冊を手にすることが出来る。無数に本を読んで行くことで、書物を愛するというスタンスを身につけていったけど、一方で感覚は鈍磨してもいた。一冊一冊が輝かしく、山を登るようにページをめくっていたあの頃と、仕事帰りに軽くランニングをするかのように、サクサクとページをめくっている今とがある。どちらが良いとか、寂しくなってしまったなどというつもりはない。が、何かが心で引っかかる。

もう一度、山へ冒険に行くのも良いのではないか。すっかり見知った土地を走り続けることも、それはそれで楽しい行為ではあるのだが、たまには未知に心を躍らせるのも悪くはない。遠くから見た稜線の美しさだけで選んだ山に、必死の形相で登って行くのだ。もう何年もかいてなかった汗をかきに。あの山へ行こう。

僕が本屋で目にしたのは、タイトルも著者名も装丁もない本だった。書かれているのは、冒頭のたった一文のみ。これだけで600円の行方を判断するというのは、大人になってしまった僕には少し勇気がいる。でも、いいじゃないか。たまにはこういうのも。この一文に誘われ、僕はあの日の夏山へと向かう。

「ほんのまくら」フェアから1冊