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そのねこがうたうとき

物語偏愛者の詭弁と戯言

『WICKED』鑑賞――世界を「裏側」から見た物語の必要性

サブカル

WICKEDはずっと見たいと思っていたミュージカルだった。四季が輸入する前、ブロードウェイで話題になっているときからもう、あのオズのプロローグが見られる!ってだけで気になっていて。それからしばらくして、劇団四季による上演が始まると聞いたときはガッカリしたような嬉しいような妙な思いになるなったりもした(劇団四季の演技手法があまり好きではないもので)。でも当時はお金もなく手が出せず、結局行く機会を逃してしまって、いつか地方都市に行ってでも見てやろうと思ってたんだけど、此度ついに東京凱旋。ああ、やっと見れた。10年越しぐらいの片思いだった。

自分はスピンオフや前日譚、外伝といった類のものが好きである。例えば 踊るシリーズがいつぞや連発した映画とかドラマとか、あとヒカ碁第1部と第2部の間に挟まれた番外編とか、西尾維新人間シリーズとか大好きだった。それまで脇役であったはずの視点から物語を紡ぎ直すと、自分が見てきた世界の別の側面が見えてくる。自分が大好きになった作品世界にたった一つしか物語がないだなんて、そんな悲しいことは信じたくなくて。だから「もう一つの物語」が与えられることは本当に喜ばしくて、作品世界に奥行きが生まれてくる。

見方によって世界は変わる。視点によって真実は化ける。最近人気の『食う寝るふたり 住むふたり』はその典型。この漫画、8年同棲が続いているカップルに起きる出来事を彼氏側と彼女側の両面から交互に描いていくわけだが、主役を変えることで新たな発見が得られるように構成されている。ただ、この漫画の彼氏ってかなり良いヤツとして描かれていて、実際男がこんなこと考えてるかってーと、いやだいぶ幻想入ってるよなーとは思う。やっぱりそのあたり、「女性(作者)の書いた視点」から抜け出せてないよなーと。しかしこの漫画の主役二人と自分がそんなに歳離れてないって辛い。精神年齢、全然追いついとらん気がするんだが。

閑話休題。奇しくも作中でオズ(あの大魔法使いのことをつい「オズ」って呼んでしまうんだが、彼って本名の設定あったっけ?)が言う。「みんなが信じているもののことを、私のいた世界では『歴史』と読んでいる」と。これはWICKEDの作品構造そのものを表すセリフだ。みなが100年間信じていた、ドロシーの眼から紡いだ物語を「正史」とするならば、WICKEDは決して語られることのなかった、敗者から見た真実だ。

エルファバを主役に据えることで、世界中の子どもたちが親しんできたお伽噺は、極めて重い物語へと姿を変える。軽やかに虹を越えていった物語の意味を抉り、あり得たかもしれない別の可能性を提示する。でも、こんなことはきっと、この世界では日常茶飯事だ。WICKEDは湾岸戦争を背景として、「正義とは何か?」というテーマから製作が始まったそうだが、じゃあ正義ってなんなんだ? 真実や正義といったものが、俺達の眼に常に見えているのか?

このミュージカルを見ていると、ついエルファバに安易に入れ込みがちだし、またそういう物語として作られてもいるのだが、むしろ私達に近いのはグリンダでありオズである。肌が緑色の少女が忽然と現れたとき、我々は彼女とどう接することができるのか。不都合な真実と出逢ったとき、眼を瞑ることなく行動できるのか。自らが「凡庸な悪人」かもしれないという自覚が我々にあるのかどうか、エルファバは問うている。

計算上、自分が「偉大」な少数者の側に立っていると思っている人の大半が実際には「凡庸」な多数派であって、しかも一定の確率で事後的には「悪」とされることになる側にいるはずだ。つまり、誰もが何かの問題について「凡庸な悪」の側に立っている可能性に直面していることになる。

ところで俺、ミュージカルと言えば第1幕の締め方が最も重要だと思っているんだけど、WICKEDについては最高でした。ずっと憧れてきた大魔法使いに裏切られ、世界の凄惨な裏側を眼にし、親友とも別れることになった最悪の場面で、エルファバは「Defying Gravity」を歌いながら空へ飛び上がる。ずっと抑圧された人生を送ってきた彼女が、ついに自由を手にする瞬間がこの場面というのはなんとも皮肉だが、その分実に力強い歌でした。良いミュージカル、というより、随所に笑いやオズファンに向けた小ネタも挟まれた、本当に良質なエンターテイメントでした。