「逃げてもいい」という処世術

逃げちゃダメだってフレーズがあるけど、俺の人生訓としては「逃げてもいい」至上主義であって、自分にもし子どもが出来ることがあったら、戦うことより逃げることを教えようと思ってたりする。というのも、逃げずに戦うことというのは美しく見える反面、やはり限界もあって、逃げなかった結果として再起不能の痛手を受けることだって少なくないからだ。具体的に言えば子どもの場合いじめの問題があるからであり、あんなもんまともに対処するぐらいなら逃げてしまえばいい、と思っている。逃げる、というと聞こえは悪いが、生き延びるための戦略、処世術というのはもっと受け入れられていい。

古い引用になってアレだが、シャーマンキングという漫画の中でホロホロという氷遣いのキャラがいたのだが、彼が巫力(戦闘力的なもの)の著しく高い敵と相対した時に選んだ戦術が、自らが得意とする氷の世界へと相手を引きずりこむことだった。真っ当に戦っても勝ち目はない。ならば、世界そのものを書き換えればいい。自分が王者になれる世界へと逃げ込む。ワニは陸上では百獣の王に勝てないが、水中へとフィールドを移せばライオンすらも捕食できる。

自分ではどうしようもない「場」の力っていうのはどうしてもあるわけで、そこから逃げることは必ずしも否定すべきことでもないのだと思う。もちろん、本当は自分の責任なのに「場」のせいにして責任を逃れるということもあるわけだが、そうじゃない例というのも少なくない。今いる場所をより良いものにしよう!なんていうポジティブな考えだってあるけど、それができるのは一部の強者だ。弱者の戦術として、「逃げる」ことは肯定されてもいいんじゃないか。

自分の人生を振り返ってみると、まぁ良く逃げてきた。というより、意識的に居場所を変えてきた覚えがある。高校に進学する時、同じ中学の生徒が他に一人しか来ないような遠くの学校を選んだ。大学に進学する時は誰も知り合いのいないところへ入った。サークルや部活を出てからは、極力OBOG向けのイベントには参加しない。厳密に言えば逃げているというほどではないのだが、同じ場所に長くとどまることを良しとしていない。そして今は、転職を考えていたりもするのだけど。

あまり自分は能力の高い人間ではないと思っている。長く人といればボロが出る。それが怖いから逃げていた。でも「逃げた」と認識されることも嫌だから、明確に正当な理由をつけた上で立ち去って行く。自分の生き方の軸を一言で表すならば「臆病」だと思う。怖いから強そうに見せかける。怖いから逃げる。怖いから隠す。

だからそう、冒頭に書いたような「生き延びる」ための逃げ方はできていない。完全に逃げたくて逃げている。ただ、逃げ先について何も考えていないわけではなくて、自分がやりたいこと、力をふるえそうなことに対してはそれなりに誠実に生きてきたつもりではある。そうでなくては逃げられない。楽な方へ逃げてしまったという後悔が怖いから。これもまた、「臆病」故の行動に他ならない。

でもさすがに25歳というところまで来てしまって、そろそろ逃げられなくなってきて、しまった。人付き合いを避けていても、親戚は徐々に亡くなっていくし、周りの人は結婚して行く。働くことから逃げたくても、お金は要るし、社会的な居場所を欠かすわけにはいかない。結局はどこかで腹をくくらなければならない。もちろん楽な仕事だってあるし、家族親類から距離を置いて生きることもできるんだろうけど、自分の「臆病」はそれを許さない。何から逃げて、何に立ち向かって行くのか、これからはもっとシビアに考えなくてはならない。

それでも、「逃げてもいい」という自分の考えは変わらない。拳を振り上げる先が見つからない勝負からは、さっさと身を引くべきだ。テンション上がらないことをいつまでもやっていられるほど、人生は長くない。でも逃げたことへの落とし前はつけるべきだ。逃げた先での自分は、逃げる前よりハッピーでなくてはならない。逃げることで後悔してしまうのではないかと恐れるなら、さっさと目の前の敵を打ち負かした方がいい。

さあ、逃げよう。もっと面白い場所へ。もっと自分が「生きられる」場所へ。

Inspired by 逃げまくってきた末に行き着いた俺の精神