そのねこがうたうとき

物語偏愛者の詭弁と戯言

人生という冒険は続く。

年末年始は自分としては珍しく年寄りに囲まれて過ごした。もう間もなく26歳になるのだが、いい加減家族親類のこととかガン無視して1人で突っ走るわけにもいかないところになってきたというのもあり、顔を出してみた次第なんだけれども。で、自分の親族関係は結構バイタリティにあふれた人が多い。年寄り連中は仕事がないなりにボランティアやってたり、畑を耕していたり、まぁパチンコもやったりして余生をそれなりに楽しんでいて。一方で若い連中はやりたい仕事やれてて楽しいですみたいな人もいて。さて、そんな中で自分は何をしているのかな、とか考える。

やりたいことはやったもん勝ち、知的好奇心を失ったら終わりというのが自分の価値観の中では大きな部分を占めていて、逆に言えば「新しいことを知りたい」という欲がなくなってしまうことは本当に怖いと思っている。とはいえ、今後の自分の人生は上手くいけば半世紀以上も続いていく。それほど長い年月を過ぎ、年末を共に過ごしたこの老人たちと同じ世代へとたどり着いたとき、果たして知的好奇心を尚も失わずにいられるのか。いられるのであればそれは実に素敵だとは思うが、脳みそが凝り固まってしまう危険性のがずっと高そうにも思う。

オタクという種族がいつまでオタクを続けられるのか、という課題はたびたび話題になる。それは就職までだったり、結婚までだったり、子供ができるまでだったり、オタクであることの「終わり」が訪れる人生は少なくない。でも、興味を失ってしまったのであれば仕方がないとも思うが、外的要因により止むを得ず手を引いてしまうのはどこか悲しい。嫁をもらう日がいつか来るのだとしたら、そういうことに多少の理解がある人を見つけたいし、子供の養育費などもあるなかで、如何に趣味を続けていくかについては話し合いたい。

あ、なんか話が妄想の域に入ったな今。

今、自分にとっては時間が足りない程に知りたいことが多すぎる。大型の書店や図書館に入った時に味わう、到底このすべてを人生の中では読みきれないという絶望にも似た快感。あの感覚を味わえる限りは、自分はまだ生きていけるのだと思う。アニメやら小説やら映画やら漫画やら、そんなにたくさん消費してどうすんのかと我に還ることは、まずない。何かを目的として消費活動をしているわけではなく、消費そのものが目的だ。知らない物語がそこにあるのなら、そのこと自体が紐を解く理由になる。答えがあるのだとしたら、きっと数多の物語の先にある。

でも、たぶん答えなんて見つからないと思うんだよな。もう物語は完全に飽和している。この世にあるすべての物語を読み切ることは不可能である上に、物語は今日もまた増え続けている。1万冊読んでも見つからなかった答えが、1万1冊目で見つかるかもしれない。冒頭の問いへの答え、自分はこの人生で何を成しているのかと言えば、ただもがいている。昨年初頭に立てた「自分は何者なのか」というあまりに青い問いへの答えは、結局のところ「そんなもん知るか」だ。可能性は常に揺蕩っていて、真実なんて曖昧で、だからこそ今は楽しい。あえて自分が何者なのかと言うならば、今成していることが答えで良いではないか。VMwareを中心としたインフラ技術に強いSEであり、今後はウェブ方面に進みたいと考えていて、オタクで、音楽好きなのが俺だ。それで十分だし、そして今後もこのままであるとは限らない。答えは常に探さなくてはならない。

人生という冒険は続く。