『ニルヤの島』へと流れ着く物語

今年の初読了は、2014年ハヤカワSFコンテストで大賞を受賞した、柴田勝家氏の『ニルヤの島』でした。そのペンネームと武将然とした外見から、授賞式のニュースが結構話題になったのを記憶してますが、実際読んでみるとなんとも繊細な筆致で、良い意味で筆者の印象とはギャップがあります。話題先行がちょっと勿体無いかも。

内容は文化人類学SFと称されてますが、どちらかというと前者の比重が高いように思います。個人の人生すべてが外部装置へ保存され、自在にアクセスできるようになった時代においては、死者に「会う」ことも容易となり、人々から「死後の世界」の概念は失われた。しかしミクロネシアにおいては、死後の世界を主張する新宗教が勃興し。。。というのが全体の構成。人間にとって死後の世界とはなにか?が大きなテーマです。場所も時系列もシャッフルされた4つのエピソードを積み重ねて展開されるので、最初は若干戸惑いますし、アクセルかかるまでがちょっと遅い気もするんですが、この構成の必然性に気付く後半からは俄然面白くなります。

死後の世界喪失に至った論理展開など、設定に飛躍がみられる箇所もあり、荒削りの感も否めませんが、全体としてはそれなりに練られた構成になっていて楽しめます。4エピソードのサブタイトルが、この小説の重要な要素であるDNAになぞらえた命名になっていたり、物語を補填する仕掛けが随所に施されているのも好感でした。前提として、最低限「ミーム」に関する基礎知識はさらっておいた方が良いと思いますが、それ以外の論理展開にはそれほど難しい箇所はなく、読みやすいSFに入るのではないでしょうか。以下、ネタバレ含めていろいろ書きます。

死後の世界に対する二つの答え

作中の大きなテーマである「死後の世界とはなにか」に対しては、大きく二つの答えが提示されています。一つはベータ・ハイドリことロビン・ザッパが提示するもので、記憶の断片化により喪失したアイデンティティーの穴埋めとして、自己のルーツを「死後の世界」にいる祖先に求めた結果である、というもの。そして主観時刻により記憶の断片化が発生しなくなったため、人びとは自己のルーツ、物語性を外部に求める必要がなくなり、死後の世界もまた消失したのだと結ばれます。

確かに「自分がなぜここにいるのか?」に対する究極の答えは「祖先がいたから」になるわけですが、それ故に祖先の存在場所として死後の世界を想定する必要があるかというと、そこに必然性はなく(単に死亡した=現世には存在しない事実だけ認定できれば良い話であって)若干狐につままれたような気がしなくもない。また完全なる記憶の保存が、本当に死後の世界の喪失を招き得るのか。他者の死については、この論理に当てはめることができるかもしれない。「おばあちゃんはどこにいったの?」「そうね、おばあちゃんはこのタブレットの中に入ってるのよ」というのが主観時刻の普及した世界であり、ここではおばあちゃんが夜空の星となる必要はないわけです。しかし自己の死についてはどうか。仮にすべての記録が残るとしても、そこからプロセスとして意識をブートできるわけではない。DEATH NOTE最終話でも提示されたテーゼではありますが、人が死後の世界を求めるのは「意識の喪失」「無の到来」を避けるためでもあると思うんですけど、作中ではそれについては何も言及されないのですよね。ここがちょっと引っかかる。

死後の世界に関する二つめの解釈は、終盤でノヴァクが行き着く「死の恐怖とは他者との断絶にこそあり、それを防ぎ、他者と総体になる場所として、ニルヤの島が存在する」というもの。自己の物語性が完全に叙述されても、それが誰からもアクセスされなくなっては非存在に等しい。そして主観時刻には後悔や悲哀までもが記録されるため、人は死後も救いがないまま延々と現世を「生き続ける」ことになる。だから人びとは救いを求め、ニルヤの島を目指す。これがミームコンピューターにより復活した、新たなる死後の世界の形なわけですが、ここでもやはり意識の永続性はスポイルされているんですよね。全体としてキリスト教の死生観がベースになっているので、キリスト教では意識の喪失は恐怖の対象になっていないってことなんでしょうか。いやそんなことないよなぁ……。

まぁそれはそれとしても、ノヴァクの提示した死後の世界の解釈は極めて真っ当に思えます。元も子もない言い方をすると、孤独な地縛霊にならずとっとと成仏したい、ということと本質は一緒です。注目すべきは、最終的にニルヤの島へ発つカヌーに乗った、マルムクヴィスト、タヤ=ワイスマン、ケンジ、ノヴァクがいずれも近しい者の死による後悔を抱いているということ。すなわち、彼らには自己の救済を求めてニルヤの島を目指す理由があった。またケンジを除けば、彼らはDNAの継承(ノヴァク父の「親子は水みたいなもの」という話を受ければ、子孫とはDNAのみならずミームをも継承する存在でもある)=子を残すことにも失敗しているわけで、その代替として他者とのミームの合一を求めたとも言えそうです。

ニルヤの島はなぜ出現したのか

ニルヤの島の出現はミームコンピューター(ニイル)の演算結果であることがロビン・ザッパの口から語られていますが、ではなぜニイルにとってニルヤの島が必要だったのか。たぶん、これがこの小説最大のポイントではないかと。

これについてはエピローグでのヒロヤの独白に答えが書かれているように思いますが、ニルヤの島信仰により生み出されるのは、人びとの「記憶」が海中で混在した状態です。まるでエヴァに登場するLCL(生命のスープ)のような話ですけど、これはつまり主観記録があくまで「個人の物語」を個別に記録するものであったのに対し、ニルヤの島はすべての人の物語=ミームが記録された、溶け込んだものであるということです。前者においては、いずれ忘れ去られたミームが孤独に「死滅」していくことになりますが、後者ではすべてのミームが同一の場所で混ざり合い、徐々にその規模を広げて、永久に海を漂い続けることになります。すなわちニルヤの島とは、他ならぬミーム自身が永続性を獲得するための概念であり、故にミームコンピューターは浸透を図ったのではないかと。ただ、これはDNAにとっては絶滅を招き得る=個体としての生命体は維持できない現象であって、ミームが利己的に振る舞った結果ということなんだろうなぁと思ってます。

結果的にこんなナイーブな結論に行き着いて本当に良いのか、自分でも悩んではいるんですけど、結局のところ死後の世界が求められた根底にあるのは「救済」に他ならないです。主観時刻は「死者の復活」をもたらすものではなかった。ノヴァクは主観時刻の中で父の最期を再び経験しますけど、それは悔恨に満ちたものであり、それを抱えたまま自らが記憶のアーカイブとなることに耐えられなくなってしまった。すなわち、主観時刻は死後の世界の現出には不完全であったということになります。希望に満ちた人生であれば、主観時刻に収められた自己の記憶体に満足し、安らかに生を終えることもできるんでしょうが、実際にはそうではなかった。ミームを収める場所として、ニルヤの島は不可欠であったと。

生のミーム化、物語化

もっとも解せなかったのがミームコンピューター周りなんですが。。そもそもの前身であるDNAコンピューターからして、原理がよくわかりません。確かにDNAは1ビットが4種類の情報を示しうる素子の配列から成るものですが、これを演算に使うには、能動的なDNAの書き換えが必要になり、生きた人間のDNAを活用してどう演算していたのか疑問が残ります。情報素子としてのDNAの役割は演算にはなく、あくまで遺伝情報のストレージでしかないわけです。ミームに関してもひとつひとつのミームのコーデック自体は固定化された情報だと思うんですが、これをどのようにして演算に活用していたのか。このあたり、ロビン・ザッパが端的に話はしているものの、もう少し掘り下げて欲しかった。

ただ、ミームの操作により社会を安定化させる、という考え方は、その理論的背景などは抜きにして、好きです。それはいわゆる「虐殺の器官」にも通ずる話であり、物語が人間を動かしていく、ということです。細分化された物語が、個々の生を肯定し、また物語の完全なる叙述により、人は永遠の生を得る。情報化が高度に進み始めている今の時代においては、なかなかに興味をそそるテーゼだと思いますし、人が死の恐怖を回避するために「自己の物語化」を図るというのは一面には真実だと思うんですよ。

このブログがまさにそれであって、私の人生はここにある程度物語化されています。でも、じゃあ死後の世界は信じていないのかといえば、やはりそうはならないんですけどね。