伊藤計劃を避けられない

伊藤計劃の劇場アニメ化がだいぶ話題になっていたが、これを全く予想しなかったファンがいたかと言えば、そうではないだろうと思う。同じくゼロ年代のSFである『マルドゥック・スクランブル』もまた数年前に劇場アニメ化されているし、今年の夏には『All you need is kill』がハリウッドで映画化される。この状況下で「ゼロ年代最高」とまで言われる伊藤計劃に、白羽の矢が立たないはずもなく。そしてあの極めて概念的な、幻想のような物語を映像化するのであれば、アニメーションの方が適しているだろうとも思う。

伊藤計劃はこれからもコンテンツとして生き続ける。言及は絶えず続き、没後の節目を迎えるたびこのような商業作戦は行われ続けるだろう。

「彼の本が」ではない。「彼が」でもない。そこに掲げられるのはもはや彼ですらない、幻想としての"伊藤計劃"だ。

"それ"は新刊をさばくための道具だ。士気を煽るための墓標だ。いつでも痛みを味わえる、簡単で都合のいい薄っぺらい擦り傷だ。

(via http://anond.hatelabo.jp/20140308193257 )

これまた随分タイムリーな増田だったなぁと今になって思うが、なんだったんだろうこれ。言っていることはわからなくもない。「伊藤計劃を超えろ」なんてコピーは鼻で笑いたくもなるし、彼の扱われ方に醜悪さを感じることは確かにある。

だが、それがどうしたという感じだ。言葉は感染するし、テキストは拡散されるものともう決まっている。ゼロ年代を通過して、伊藤計劃を『From the nothing, With Love』まで読んでいるのであれば、増田だってそんなことは承知の上なのではないのか。宿主を失い、世界の隅々まで散り始めたコンテンツは止まらないし止められない。それに中指を突き立てたところで、ただ「俺は不快だ」ということの表明にしかならない。映画化なんて序の口で、まだまだ伊藤計劃は消費尽くされていくのだ。そうだきっと、世界と同化されるまで。良いではないか。屍者を貪るといったところで、「57番目の伊藤計劃」が生み出されない程には世界はまだ理性的で現実的なのだし。この2014年において、SFをに触れようと思えば良くも悪くも伊藤計劃を避けられない。彼を書店キャンペーンの旗印として用いることも、それに対してこんな増田を書き上げることも、本質的には同義なのだと思う。

で、伊藤計劃ばかりが話題になったような気もするが、この3連休で気になった劇場アニメの発表は個人的にもう2作ある。

何年か前にTVアニメとして話題になった、『峰不二子という女』のシリーズらしい。あの1作きりだと思ってたのでこれは朗報。前作は非常に良く出来ていたのだが、あのクオリティ、濃度の作品を週に1回、3か月間に渡って見続けるというのがなんだかしんどくなってしまい、途中でやめてしまった。これなら映画にでもしてくれればいいのにと思っていたら、本当に映画化である。とはいえバルト9のみ(!?)の上映なので、最近流行りのOVAの限定公開なのだろうけども。「新しい、カッコいいルパン三世をスピンオフでも作り続けたい」と語っているところを見ると、最大5作続くのではないかという気がして期待である。んにしても公式サイトのはてブが一桁とは何事か……。東京限定公開ではあるが……。

そして。

来るとは聞いていたが音沙汰なく心配だったが、こちらも夏公開ということで。わずか30分の映像で、あれほどまで話題を攫った作品というのもなかなかない。自分の中ではフリクリと似た感覚があって、なんだかよくわかんないんだけど見ていて脳内にいろんな物質がドバドバ出てくる感じが気持ちよかった。あれがもう一度見られるというのは本当に楽しみ。

ちょっと気になるのは主題歌かもしれない。前作はnagiをボーカルに携えていた頃のsupercellで、あれはもう作品に見事にマッチしていたけど、現ボーカルのこゑだがセンコロールに合うかというと、微妙かなぁと。まぁ、そんなところを気にしても仕方ないのだが。前作見てない方はニコニコで450円で見られますので是非。30分ですしサクッと。冬アニメが終わって空いた時間にでも。

あとサイコパスも映画化で、ゆるゆりも劇場公開するらしいね。最近の深夜アニメの映画化ラッシュハンパねぇな。