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そのねこがうたうとき

物語偏愛者の詭弁と戯言

『屍者の帝国』がもたらすもの

サブカル

屍者の帝国やっと読んだ。気付いたらもう2年前なのねこれ。読みたいけどおいしいものは取っておきたいという思考が働いてなんとなく読まずにいたけど、結論としては読んでよかったなと。ああ、楽しいなという感じだった。

まぁ刊行当初の熱気は当然ながらすでに過ぎ去りましたけど、伊藤計劃について言えば最近劇場アニメ化が決まったし、円城塔も計劃と同じフィリップ・K・ディック文学賞特別賞を手にしたということで、ある意味今もなお「旬」なのかもしれない。……計劃を巡る熱狂についてはもう死後ずっとか。

で、前評判通りフィクション/ノンフィクション問わずあらゆるものが引用されてパロられてて、19世紀末だよ!全員集合!というノリな作品だったんだが、特に前知識なくても楽しめそうだなと思う一方、やはりある程度の教養というか雑学があった方がなお面白い作品だというのは間違いない。ご存知の通り『カラマーゾフの兄弟』とシャーロック・ホームズシリーズ、そしてフランケンシュタインはさることながら、007シリーズの要素もあったり『未来のイヴ』も下地になっていたり。とはいえ自分もカラマーゾフは途中までしか読んでないし、『未来のイヴ』も『イノセンス』見た時にいろいろ調べる過程で知ったぐらいで原作わかんないけど。

あと伊藤計劃作品は取りあえず読んだ方がいい。『虐殺』『ハーモニー』はもちろん、『Indifference Engine』含めて全部。特にIndifference Engineが大事かもしれない。これらの読破歴があった上で得られる、有り得なかったはずの「ボーナスステージ」にあたるのが本作なのだと思う。計劃そのものという感じではないけれど、こねくり回された理論とか、ミッションを積み重ねて徐々に標的へ迫っていくまるでゲームのような構成とか、いかにも計劃っぽいなぁと思う要素は多かった。

以下、動画挟んで一応ネタバレ注意ってことで。


「Project Itoh」始動PV - YouTube

繰り返しになるけど、思ってた以上に伊藤計劃らしさがあった。まぁ後半に進んでいくに連れ、徐々に「円城化」していったのも確かなんだけど。ザ・ワンと対峙する最終盤、ワトソンの「私は誰だ――」という自問自答のあたりはすごく円城氏らしさがあって笑うぐらいでした。というか、ザ・ワンとの邂逅からラストまでの流れは完全に円城作品と言っていい気がする。

じゃあ計劃らしさはどこにあったんだってとこだけど、言葉と物語と意識を巡るテーゼは完全に彼の生前の作品が前提にありましたよね、っていう。自分がなんで伊藤計劃を好んだのかというと、このあたりのテーマに自分自身すごく興味がありまして。大学でも社会言語学を専攻していて、言葉と意識の相互作用だとか、あるいは人間同士を結びつける媒介としての言語、ミーム、社会の物語化、そういうテーマがたまらなく好きなのですよ。だから『虐殺器官』を初めて読んだとき、「虐殺の文法」あたりの設定にときめきを感じまして。ぶっちゃけ物語のプロットはあんま興味ないんですよ。さっき書いた通りゲームっぽいというか、行った先で何かが起きて、ヒントを得て次のステージへ、という展開はちょっと単調にも思えてる(今作について言えば、バトルがかなり派手だったりして、エンタメ性はかなりグレードアップしてたと思う)。

計劃は『虐殺器官』でも『From the Nothing, With Love』でも、言語や物語が人間を駆動すること、生成されたテクストこそが「私」であるというテーマを描いていたわけだが、それは今作における「X」の正体にも符合する。そして意識とは、X、すなわち言葉によりもたらされるものに過ぎないと。私は録し、録されるもの。ヴィクターの手記が勝手に存在するのであれば、書き手が存在する必要もなく。「はじめに言葉ありき。言葉は神と共にありき」と言うが、まさにそれだ。

このテーマは伊藤計劃の作品の中で繰り返されている。『Indifference Engine』では、「『俺』と『お前』が憎みあうから戦争が起こるんじゃない。戦争するために『俺』は存在するんだ」という一節がある。また伊藤・円城の共作で綴られた『デファレンス・エンジン』の解説では、「差異が物語を生み出す」のだと語られる。人と人、時代と時代、あらゆる二点間の差異は物語の形を取り、そして物語が人を動かしていく。

でもこれは、意識なんてものは重要ではないという結論ではない。「私」の不在、「個」の否定を示すものではない、と思う。少なくとも『屍者の帝国』においては。というのは、フライデーの迎えた結末、本来意識を消失し、生前とも一切つながりがない木偶であるはずの屍者が、物質化した情報が、ついには意識を生起して足を踏み出しているからだ。ならば、仮にザ・ワンの言う「屍者の帝国」が実現したところで、そこは魂のないディストピア足りうるのかどうか。そして自らの脳に「バベル」を介入させたワトソンは、Xの、この物語の支配を抜けだした結果として、我々の知るジョン・H・ワトソンに、シャーロック・ホームズの良き相棒に転化していく。他者の物語により駆動されずとも、生者も屍者も目を開き得る。伊藤計劃による長編が、いずれも世界のディストピア化を免れずに幕を下ろしたのに対し、新たな「意識」が生まれ落ちた場面で終わるこの作品は、実に対称的だと思う。

始原の言葉をもたらしたのは何者だったのか。アダムの言葉は伝播し、それにより生み出された物語がさらに感染していき、その最果てで生まれ落ちた一つのテクストがこの『屍者の帝国』だ。そして物語の存在により、伊藤計劃は活かされる。こういう言い方は世の中的には嫌われるようにも思うが、この仕掛は計劃自身が仕掛けたものとしか思えない。何にせよ、その意志を正当に引き継いで円城塔が描き上げたこの物語は、確かに傑作だったのだと思う。『屍者の帝国』はまた、このエントリーのようなテクストを無数にもたらしていく。

もうひとつのフランケンシュタイン

最後の最後でどうでもいいことを書いておくが、フランケンシュタインを下地にした物語としては、本作以前に和月伸宏の『エンバーミング』を自分は読んでいた。そして『エンバーミング』と『屍者の帝国』に関していうと、なかなかに類似点が多くて面白い。

  • 舞台は19世紀末
  • いずれもヴィクター・フランケンシュタインの死者復活技術が普及した世界
  • ヴィクターの創造した「怪物」がいずれの世界でも生き延びている
  • そして「怪物」は「ザ・ワン」と呼称されている
  • さらに言えば、マイクロフトがいずれの作品でも登場する

ザ・ワンという呼称は原作にはなかったものだと思うが、何かの作品のオマージュなのだろうか。まあ「原初の存在」を指す言葉として特にひねったものでもないので、偶然被るというのも有り得る話だとは思うが。ちょっと面白いのは、マイクロフトがいずれも登場しているということ。この時代の「さる高貴な御方」に近付くのであれば、彼を登場させるのは必須なんだろうか。

とはいえ大きく異なるのは、『屍者の帝国』ではフランケンシュタインの技術が文明を下支えしているのに対し、『エンバーミング』においてはあくまで闇の技術、悪人か狂人しか関わらないものとされている点だ。死者復活なんぞいつの時代でも禁忌なわけで、肯定的なテクノロジーとして取り扱った『屍者』の方がむしろ珍しいのかもしれない。エンバーミングはまだ連載が続いているが、果たしてどんな結末を迎えるやら。

はー、しかしテーマがテーマだけあって、ブログまとめるのもしんどかった。生成されたテクストが自分だと言うのなら、このブログはまさに俺自身なわけだ。そして有象無象のテクストが際限なく集まったインターネットは、死没した者、今を生きる者、あるいはフィクション/ノンフィクションなど関係なく集合し、意識の介在を許すことのない、それこそ「屍者の帝国」なのだよなぁ。