Chronicle 1995

東京都現代美術館「クロニクル 1995」見てきた。

1995年は時代の転機足り得たのか。どちらかといえば、単純にインパクトの強い、それもネガティブな出来事が多すぎて、センセーショナルに語られているだけなのではないかという思いが自分にはある。要するに阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件と一連のオウム事件終息。サブカルの文脈で言えば、ここに新世紀エヴァンゲリオンが加わってくるわけだが、EOEが上映されているのはこの年ではない。

自分は当時7歳だ。断片的な記憶として、増え続ける死者数を日々カウントしている年初のテレビや、父の安否の確認が取れるまで、ほんの少し緊張感が高まっていた母の姿はなんとなく覚えているが、この年が特別どういう雰囲気をまとっていたかは知らない。

ではなぜ覚えてもいない年に、1995年に囚われるのかと言えば、物心ついてからの自分の人生が、やはりこの年を発端とした社会状況に大きな影響を受けているように思うからだ。不景気しか記憶になく、まるで先がないようなこの国の政治状況、取り沙汰される少年犯罪。そういう時代を生きてきた。あるいは「大きな物語の終焉」だとか、そういう言葉で表せるかもしれない。物語が幕を閉じたのだとしたら、それはやはり1995年のことだったように思える。この年がどういう意味を持っていたのか追いかけることは、そのまま自分のルーツを辿ることにも近い。

現代美術というのは「今ここ」という地理性/時代性を敏感に切り取ることに大きな意味を見出していたが、本展では現代美術はいわば「過去のもの」として扱われる。館内で配布されるリーフレットにも記載があるが、これは現代美術の表現を通して現在進行形の歴史を検証する試みだ。過ぎた時代の一時点を表しているという意味では、ここにある作品はいわば過去である。だが一方で、1995年に醸成された空気は、なおも今の時代へと継続しているように思う。その意味では、現在進行形の歴史となる。

どうしても負の側面ばかりが切り取られがちなこの年だが、一方では新たな時代の幕開けでもある。八谷和彦の『メガ日記』などは、今こうして私がブログを書いていることにも通ずる発想だ。かつての時代を覆っていた「大きな物語」は消失したのかもしれないが、新たな物語は個々人の中にこそある。普段は決して、その目には見えないのかもしれないが。

ところで「1995年」を振り返る上では、自分は『輪るピングドラム』を外すことはできないだろうと思っている。あのアニメで何度も繰り返された「きっと何者にもなれないお前たち」というのは、単純に主人公たちを示した言葉ではなく、信じられうる未来を失った「1995年以降のすべての子どもたち」を指しているのは自明だ。あの物語は、そんな我々にとっての一つの生存戦略なのだ、と思う。

また自分の記憶にない「1995年」を掘り起こす意味では、村上春樹の『アンダーグラウンド』は大変興味深く読めた。あの事件の異常さと、それが他愛のない日常のあくまで延長上にあったということがよくわかる。

どこか象徴的で、特別であったように思えてしまう年だが、それがいずれの年とも同じく平凡にやってきて、そして過ぎ去っていったということは、心に留めておかなくてはならないのだと思う。

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