忘却されたのは誰か

ヨコハマトリエンナーレにいってきやした。今回のテーマは『華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある』。

たのしかったです。

『忘却』というテーマは正直「ありふれてないか」という気がした。「大切なことを忘れていませんか?」なんて、使い古されているにも程があるド定番フレーズだし、「日常にはない何か」を見せてくれるという点では、あらゆるアートは忘却からやって来るものなんじゃないかと思う。忘れたものを見たいからアートイベントに行くのだ。それなのに何を今更言うのだろう、と。

集められた作品群は文字通りの「忘却」だけではない。釜ヶ崎芸術大学に関する一連の展示は、「忘れられた」というよりは、我々が意図的に「忘れ去った」ものの象徴に思える。自然と忘れ去ることと、あえて目を背けること、そして無意識のうちに見て見ぬふりをすること、最初から見えていないことはいずれも異なる。

2014-09-14 13.46.26

(ちなみにCCライセンスなんで会場内写真撮れます……!)

この時期に「忘却」と言われると、311の風化という話をどうしても思い起こすのだけど、そもそもにして我々は311を「忘れる」ことができるのか。自分は最初の地震と、その後の余震を関東において体験しているけども、建物が崩壊したり、津波が実際にやってきたりした現場を見ていたわけではない。自分の記憶の中の「311」は、メディアを通して「作られた」ものがほとんどだ。だからそれは、「忘れる」と呼ぶには相応しくないように思える。(ちなみに本展では311にはほぼ触れられていない)

本当に知っていることなど極一部で、日頃意識している物事など本当にわずかなもので、でもだからこそ「日常」は生きられる。忘れることは悪だとは思わない。だが、自分もまた忘れられているのかもしれない。忘れられる側に立つことがあるのかもしれない。忘れられたものへ目を向けることに以上に重要なのは、忘れられるのは「誰でもありえる」という想像力だ。そのために「忘却の海を漂う」ことには意味がある。

作品とは、特定の作者である「私」の制作物を意味するが、もしこの「私」というものが私自身の専有物ではなく、無数の他者、無数の歴史、無数の言葉、無数の数式や確率や情報等々によって形成された偶然性の賜物であるとしたら、特定の名前を持つ「私」に与えられた固有性は、その根拠を失ってしまうだろう。

この巨大な観念のプラモデルを作り出したのは、誰でもなく、また誰でもありえた。誰もが共犯者なのだと言うべきか。

(第5話 非人称の漂流〜Still Moving)

強烈なインパクトがあるだとか、息を呑むほどの美しさがあるというような作品群ではなかったけど、どこか脳味噌に引っかかって忘れないような、そういう感じの。毛利悠子氏の『ある作曲家の部屋』とか好みでしたね。ミクさん見ててもそうなんだけど、匿名性とか無人称といった概念が好きなのだと思う。誰のものでもない、あるいは誰でも代入可能、という感覚。