終わりなき戯言

戯言&人間シリーズが(俺の中で)完結した。自分はラノベ読みではないので、この作品に手を付けたのも確か2010年頃、すでに戯言シリーズの文庫版刊行が終わったときだったのだけど、気付けばそこから戯言9冊+人間6冊の計15冊、この10月に発売された『零崎人識の人間関係』4冊(四部作の完結編が四部作になってるってどういうことなんだ)を最後に、ものの見事に読み終えてしまった。

正直に言えば、何が面白かったのかは自分でもよくわからない。クビキリサイクルを読了したときはその大胆すぎる謎解きに呆気にとられはしたものの、特別面白い作品だとは思わなかった。クビシメロマンチストで人識とのやり取りや「無為式」としてのいーちゃんの「本領発揮」を見て、徐々にこの作品の楽しみ方がわかるようになり、サイコロジカルのサッちゃん登場でどっぷりと浸かり込んでしまったように思う。「言葉遊びすげえ!」とよく言われる作家だが、というよりは、描写ではなくて「言葉」だけで物語を進め、ドラマを紡ぐ力、というのか。まぁ、不思議な作品だったと思う。

あと、戯言遣いやら欠陥製品やらという言葉に親近感を覚えてしまうオタク属性は少なくないのではないか。どこか世の中から外れたような、どこか「中心」からは外れたような、上手くコミュニケーションが取れない、人と関われない、そんなものを突き詰めた究極系がいーちゃんである。誰かに発する言葉は無意味であり、自分の言葉など届くはずがないと嘆息するのであれば、「戯言なんだよ」と嘯いてみたくもなるではないか。

戯言遣いとはすなわち、京極堂の憑物落としと似たようなものだと思っている。言葉による破壊、解体。事実と真実の再定義。いーちゃんは何かを変えてくれるわけではなく、何かを変えようとするわけでもなく、ただそこにあることを彼なりに説き直すだけの話だ。傍観者。不確定要素。付属物。 一方の零崎は物理的に人を壊す。ばらす。最後の最後で彼の目的が殺しでもスリルでも零崎としての殺人衝動でもなく、解体そのものにあったと明示されるわけだが、ならば彼のナイフはいーちゃんの戯言に近い存在なのではないかとも思えてくる。人の気持ちがわからない故に心を探し、しかし見つけられないまま殺人を止め、緩やかに「肉体の限界」へ近づいていった彼は、ひょっとすればいーちゃん以上に悲壮な存在だったのではなかろうか。

世界の終わり。二人は最終的に自らを変え、それぞれの物語を閉じる。いーちゃんの言うように「変わりたいという思いは自殺」であり、零崎の言うように「終わりが見たきゃあ死ねばいい」というのであれば、殺人鬼ではなくなった時点で、零崎の物語は「終わり」なんだろう。それは物語の最後に彼が行き着いた場所が、世俗と「断絶」した鈴無の元であったことにも現れている。だが一方でいーちゃんは、西東天と向き合ったとき、初めて「傍観者」ではなくなった。むしろ彼が因果に絡んだのは、自らの意志で世界と向き合い始めたのは、最終巻の時点からだった。そういう意味でもこの二人は対偶的存在、ということなのか。……いや、全種類の人間を網羅した零崎は、まだ哀川潤という「十三人目」を解体できていない。だが殺人鬼であることを止めた彼であれば、哀川潤を解体できる日は二度と来ないのだから、彼もまた「終わらない」存在になったということなのか。

と、ここまで書いてみてもぶっちゃけ自分で腑に落ちない。表面的に言葉をなぞるだけではこの物語は飲み下せない。下せていない。その過程が結局、西尾維新を「面白い」と感じるか、「くだらない」と感じるかの分け目なんだと思う。だって表層上は何も起きてないことが多いもの。人間シリーズとかヒトクイマジカルあたりなんて、ほぼバトって話して終わりって感じだし。そのあたり含め、やっぱ憑物落としというか京極堂の影響を受けているんだろうなぁ、と思うけど。

ただ一つだけ言えることとして、ジョジョの人間賛歌を意識しているのかはわからないが、「生きること」が作品全体を貫いていることは間違いない。それはクビシメロマンチストで語られたような、単に「心臓が動いているか」などという話ではなく、「死んでいるように生きている」存在や、「すでに終わっている」存在も含め、「生きている」ことの意味を突き詰め、またそれを肯定するための物語だ。いーちゃんは人が死んでも何も感じない。零崎は人を殺しても何も感じない。真心は生きている手応えがない。西東天は終わりを望む。そんな生きていない者だらけの世界で、何をもって「生きている」とするのか。

いーたん。生きるってのは、どういうことだと思う?」哀川さんは言う。「あたしはね――生きるってのは、《生きてると思うこと》だと思う」

――西尾維新ネコソギラジカル(下)青色サヴァン戯言遣い』p.411

まあ、結局は全部戯言なんだよ。