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そのねこがうたうとき

物語偏愛者の詭弁と戯言

瀬戸内に根付き、広がりゆくアートを巡る旅

2016-10-28 14.11.40

ずっと行きたかった瀬戸内国際芸術祭にやっとの思いで行ってきました。なにせ3年に一度なので、そもそもにして行ける機会が少ない。これを逃したら、というか次に行けるのは31歳のときである、とか考えるとトリエンナーレって貴重な機会だなぁと思う。

そういえば「作品を見たい」ではなくて「芸術祭に行きたい」という動機は、ひょっとしたらアートの嗜みとしては不純かも?と思わなくもないけど、コンテンポラリーアートが好き、というアバウトな動機でいろんな作品に触れたいのですよね。あと瀬戸内はポスターの爽やかなイメージがとても強くて、ずっと心惹かれるものがあったのです。実際行ってみたら海も空も青く、遠くに見える島の陰も濃い青で、ポスターを裏切らないすばらしい情景でした。作品的な目当ても皆無だったわけではなくて、東京都庭園美術館で個展開催中のボルタンスキーが気になっていたのですが、「心臓音のアーカイブ」には辿り着けたものの、「ささやきの森」に行かれなかったのが若干の心残り。あと宮島達男氏の作品に偶然出会えて震えた。

巡っているだけで楽しい芸術祭

2016-10-30 13.32.28

これまでにも地域アートの類は山形、横浜、神戸、六甲山などいろいろ足を運んできたのだけれど、今回の瀬戸内については「巡っているだけで楽しい」というのが他と一線を画しているように感じた。だいたいの芸術祭というのはせいぜい一つの市内、2か所から3か所の会場を中心とした開催で、2日もあればざっと全体を見て回ることは難しくない。この点、瀬戸内は大小12の島々に加えて高松、宇野(岡山)の2港も会場となっていて、さらには春夏秋の3会期に分けて開催されるため、すべての展示を回るということの難度が極めて高い。国内でこれほど大規模な芸術祭はここだけではないか。

とはいえ全部を回ろうとする人はおそらくそれほどいなくて(フルコンした人がいたらお目にかかりたいです)、見たい作品を中心に3島前後を回るのが一般的なようだ。自分も4つの島を回ってみたが、これがなかなかに楽しい。作品を見るのに必要な「パスポート」には作品の場所が記された広大なマップと、各作品を見るときにスタンプを押せる台紙が付いてくるのだが、マップを頼りに作品を探し歩き、見つけた先でスタンプを押して回る旅はさながらPokemonGOのようでもある。

島々にはそれぞれ特徴があって、小豆島の港に降り立ったときは胡麻油の匂いが漂ってきて、この島の産業というものを嫌が応にも意識したし、女木島はもともと桃太郎の「鬼が島」として観光アピールをしていたこともあって、アートを見るのと同時に「鬼の棲む島」を見て回れる。アートのために各島を周遊するというよりは、いろんな島を旅していく中で、その島に置かれたアートに触れていくという方が実感に近い。旅をするうちに、目的が逆転していくような感覚がある。

昨今の芸術祭ブームは、地域振興を目的としたものだが、それであるならば「地域色」をいかにアートと結び付けていくかが肝心になる。瀬戸内はもともとベネッセアートサイト直島によるプロジェクトが進んでいたこともあって、特にプロジェクト対象の島々においては、アートと地域がすでに溶け込んでいるように感じた。何分交通の便が良いとは言い難いこともあり、地域の人と言葉を交わす機会も少なくなかったが、島のおばちゃんやおじいちゃんから、アート作品の作者や背景についての話がスラスラと出てくるのには、ちょっと度肝を抜かれる。「アートとともに在ること」が、すでに生活の中に根付いているように感じた。ボルタンスキーがなぜ豊島に作品を作ったのか。女木島から何を受けてカオスラウンジが作品制作にかかったのか。そんなことに思いを馳せながら鑑賞する。

もっとも過酷な芸術祭

2016-10-28 14.10.28

各島々を回っていくことは、楽しさもあれば難しさもある。島間の移動は当然ながら船になるが、本数は限られているわけで、自分が行きたい島をすべて回れるかは、どうしても時刻表との相談になる。島の中の移動についても同様。各島にはだいたい複数の拠点があり、そのそれぞれにアート作品がまとまっていることが多いが、拠点と拠点との間は数km離れていることがざらだ。移動手段はバスがあればバス、もしくはレンタサイクルを使うしかないが、もっとも大きな小豆島についてはレンタカーがなければ満足な移動は難しいように思えた。

時刻表とにらめっこして、綿密なスケジュールを立てたところで、それを完遂できるとも限らない。船やバスには定員があるので、混雑によっては希望していた時間のものに乗れないこともあるからだ。特に「アートの島」として知名度の高い直島や豊島の混雑が激しく、自分も豊島から出る際には希望のフェリー(その日の最終便!)が満員で乗れず、その次の臨時便にも乗れず、さらにその次にようやく乗船できた。これに懲りてというか、最終日は帰りの新幹線に乗れるように移動しなくてはならないため、だいぶ慎重に動く羽目になった。時刻表に縛られない点ではレンタサイクルの方が自由度が高くなるが、こちらも出払ってしまっていることが多いのであまり当てにはできない。また逆に、芸術祭期間中は定期便以外の臨時便が動いていることも多いので、当日の運行状況は現地で聞いて確かめた方がいい。

大衆化に走らず裾野を広げるアート

2016-10-29 14.44.44

ところで、散財によりアニメを下支えしているオタクの方々には共感いただけることと思いますが、自分は文化を受け継いでいくこと、絶やさないことにとても興味がありまして。資本主義の今日においてはどうしても文化の維持にも金銭が必要になるので、よく取られる手段としては「大衆化」によるファン層の拡大がある。歌舞伎におけるスーパー歌舞伎なんかそうですかね。アートの世界でも「ゴッホゴーギャン展」の音声ガイドを小野Dと杉田氏が務めているあたりは、大衆化とは違うけどまぁ意図は言わなくてもわかりますよね。

んで振り返って、芸術祭というのも先ほど書いたとおり地域振興の意図があり、さらにはアートの裾野を広げる目的ももちろんあると思うのだけど、面白いのは「わかりやすい」ものを置こうとすることがほとんどないこと。基本的には現役の作家の展示になることもあり、コンテンポラリーアートの展示が多くなるが、コンテンポラリーアートは鑑賞に決して易しいものではない、と思う。しかし集客はきちんと出来ている。これは自分が「コンテンポラリーアートは難しい」と思っているだけで世間的にはそうではないのか、それとも芸術的な解釈の難易を別にして、コンテンポラリーアートが別の魅力を放っているということなのか。

大衆化して間口を広げることは、一時的な集客にはなるが、そこからその文化を継続的に嗜んでくれるリピーターはどうしても限定的になる。また大衆化された方式が一般的になってしまうと、クラシカルな方式の存続が危ぶまれたり、いろいろと副作用があるというのが自分の認識。コンテンポラリーアートというのは、その間隙を上手く縫っているようにも見える。安易に大衆化せずとも間口を広げられている妙というのか、ここから学べるものって何かあるのでは?という気がしなくもない。

2016-10-29 12.03.40

アートというのは、感覚や感情、記憶、憧憬といった、不可視なものを抽象化し、具現化していったものだと自分は捉えている。その意味で、多くの歴史や産業、文化を積み上げてきた瀬戸内の島々と、その結晶化としてのアートというのは、とても相性が良いように感じられた。アートを通じて島を感じ、島の実感からアートを探っていく。それぞれの島の思いと、海と空に挟まれた青い瀬戸内の情景と、色とりどりのアートが渾然一体となって、何とも言えぬ快感を覚える旅だった。