そのねこがうたうとき

物語偏愛者の詭弁と戯言

オタク語りをしよう

「シンゴジ実況」がおもしろい。劇中の時間軸でゴジラ=巨大不明生物が初めて出現した2016年11月3日より、劇中の出来事がリアルタイムに発生していると想定して、いわば架空のツイートを交わすというハッシュタグ。おそらく発端となったのはこのアカウントだと思うが、だいぶ大きなトレンドになっている。今日、11月7日は都内が最大の被害……というかほぼ壊滅した日で、ツイート数も最高潮になっている。

この企画、なんとも面白いというかイカれているのが、まだ作品の円盤は発売されていないし、公式が出す最大資料になるはずの『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』も発売が延期のまま。つまり満足な資料は存在しないままに、各自が2時間のコンテンツを思い思いに脳内で再生しながら楽しんでいる状態ということだ。「ゴジラがいた!」と言って写メ(死語か?)風の画像を上げている人も、予告編からの切り貼りで頑張っていると思うとなんだか泣けてくる。というかそもそも時系列資料って満足にあったのか?と思ったら公式が投下してくる始末。これ、要するにフルネタバレに近い形でやってるわけで、権利的に大丈夫なんかなぁとか思ってたのだけど、カラー的には「いいぞ、もっとやれ」っぽい。

自分は庵野作品が好きでGAINAXが好きで、要はそういう文脈から見て『シンゴジラ』を好きになっていたので、これほどの興収を稼ぐほど非オタク層にまでヒットしている理由がいまいち実感できていなかったのだけど、今回のでようやく掴めたように思う。今日、お昼前にゴジラ由比ヶ浜に出現し、その後多摩川でのタバ作戦でも止まらず、帰宅時間めがけて徐々に徐々に、自分が働いている都心へ近づいてくるのを「眺めて」いて、虚構でありながらも薄ら寒い恐怖を覚えた。台風が接近してきているときに、帰宅命令が出ないか伺いながら仕事をしているときの感覚に近いが、もっと強く、得体の知れないものがやってくる、何が起こるかわからない、身のやり方がわからないという不安。シンゴジラは非常にわかりやすい恐怖、我々日本人が共有して持っている、畏怖すべき天災そのものなのだということを、現実に重ねることで初めて実感した。ゴジラは「神」であるとはこういうことなのだ。現実対虚構というのがシンゴジラのキャッチコピーだったが、むしろ虚構は抉るように現実を脅かす。現実の延長上にある存在として、我々はゴジラに恐怖できる。

言うまでもなくゴジラは存在しない。だが我々の語る存在として彼は確かに存在していて、都心にいた者たちは今日、彼の炎に焼かれて死んだのだと思う。幽霊は、誰か一人が騒ぎ立てても幻に過ぎないが、複数人に目撃されることで心霊スポットとして、怪談として物語化する。神であるゴジラについてのそれは、まさに神話に等しい。

話は変わるが、先日旅行先で数年来のフォロワーと初めてリアルに会い、酒を飲みながらオタク語りに花を咲かせるというなんとも楽しい出来事があった。オタクコンテンツというのは、直接味わっているときも楽しいし、リリース後すぐにSNSで感想を共有しあったり、一緒に悶えたりするのも楽しくはあるが、個人的に一番好きなのは、自分語りの一つとして「オタクとしての物語」を共有しあうときだ。その道に「目覚めて」から今日に至るまで、様々なコンテンツに触れ、楽しみ、影響を受けてきたという経験は自分だけのものなのだが、それを誰かと共有することで、あのときはこうだった、あの作品はこういう意味だったんじゃないかと、自分の中に、他者との関係の中に物語として置き直せる。個人的な経験が、複数で共有する物語となったとき、ゴジラと同様にそれは「我々が生きる神話」に変わる。

Twitterが流行り始めたときにはブログの衰退が嘆かれ、長文文化が徐々に薄れていくのではという危惧も聞かれたが、それでもなおブログという文化圏は残っている。140字の制限内で、お決まりの語彙からなる「感動の共有」も楽しくはあるのだが、やはり語り、誰かの語りをもとに新たな語りを紡ぎ、そういう風に長く広く共有していくことで、オタクコンテンツというのは現実に繋がる物語として定着していくように思う。

だからオタク語りをしよう。

あらゆるコンテンツは虚構だ。それは理解している。でも、虚構の中の人物に影響を受けて人生観が変わったり、虚構の恐怖から現実の危機を想起したり、そんな経験は誰にだってあるはずだ。それを語ろう。パーソナルな経験を、我々が共有し、現実を生きていくための物語にしよう。自分が感じるゴジラの恐怖と、あなたが感じるゴジラの恐怖は、どこか少しずつ違うはずだ。あるいは誰かは興奮を覚え、誰かは心酔するのかもしれない。私はそれが聞きたい。

様々な人の経験を折り重ねていくことで、虚構は多層性を持った神話として実体化していく。自分はこういう経験をしてきたのだという、「記憶」がアイデンティティになるのであれば、共有された物語もまた、自分を形作り、そして先を見据えるための礎となるはずだ。