映画『虐殺器官』におけるゼロ年代の呪縛


「虐殺器官」新PV

伊藤計劃処女作がProject Itoh最後の公開となったのはなんともはやというところだが、無事に公開されただけでも良かったとは思う。もちろん、欲を言えば『ハーモニー』の前に公開してほしかった。

『屍者の帝国』を公開初日に見たものの、正直なところその後を見る意欲を失い(シリーズ1作目だし褒めてるっぽくブログは書いたけど、見てわかる通り不満だらけだし、結論は不満です)、『ハーモニー』は先日の地上波放送で初めて見た。ただ、『虐殺器官』は試写会等の評判も高く、予告編の出来もよかったので、結局劇場で見ることを決め、これでProject Itohは3作とも見る形になった。その上で改めて言うと、この『虐殺器官』が3作の中ではもっとも良く出来ていた。

ミリタリー映画という選択

そもそもにして計劃作品は会話劇によって展開される部分が大きいため、映画にするのは困難が伴うのだと思う。想定通り3作ともガッツリと台詞は原作から削られていて、それ故に『屍者』は設定の根幹を揺るがす結果になり、『ハーモニー』は起きている事態の深刻さと、ETMLの虚しさに反して、あまりにあっさりした後味になってしまった。

翻って『虐殺器官』は、「正しく削る」ことが出来たように見えた。

虐殺器官』はその中心を成す「虐殺の文法」以外にも、近未来的なガジェットが多分に出てくるSF的な世界観なわけだが、劇中では個々のガジェットが細かく語られることがほとんどない。ただそれによって作品解釈に致命的な影響が出ることは少なく、言わば単純に「ハイコンテクスト」な仕上がりとなっていた。奇妙に真っ平らな黒い飛行物体を「シーウィード」と呼ぶことについては、わかった人だけがニヤリとすれば済む話だし、一方で人工筋肉に纏わる不都合な真実はきちんと描く。省くべきではない説明を凝らしていたように見える(まぁ、生得文法やサピア・ウォーフを説明なしに使うのはハードルが高かった気もするが)。

この映画の作りは、SFよりミリタリー方面へ大きく舵を切っていた。戦場の描写は容赦がなく、『バトル・ロワイアル』が社会問題になったこの国においては、アニメで作画するしかなかったであろうと思わず納得するようなシーンを堂々と挟み込む。計劃を特徴づけるのはSF、ミリタリーの2要素が強いと思うのだが、長編3作品の中だとミリタリー色が濃いのはこの作品だけなので、この選択は正しかったと思う。SF的要素はそこに、近未来を示す背景として華を添えるに留まる。

ゲーム化された殺意

とはいえ、やはり削られた部分が一切気にならないわけでもない。

パンフレットの村瀬監督インタビューによれば、これは意図的な措置(彼の言葉を借りれば、小説の本質だと思っている部分をあえて外した、らしい)だったようだが、原作では冒頭から語られる、クラヴィスの「母を殺した」ことへの苦悩が消失したことは、物語の筋に大きく影響している。クラヴィスが生命維持装置を外すという間接的な形で母を「殺した」という自覚を持っていることと、その自覚をルツィアの言葉により救われること。この二点が失われると、彼がジョン・ポールと、特にルツィアを執拗に追いかける理由が欠けてしまう。それにより映画の中のクラヴィスは、時にかなりストイックに任務を遂行するエージェントのような印象さえ受ける。

ラヴィスが思い悩む、能動的な「殺意」の有無というテーマは、以前このブログで書いたように、自分にとってこの作品の最も魅力を感じる要素の一つだった。それだけに、この葛藤が抑制されたことが残念ではあった。

ただ、上手いと思ったのはオルタナの視点で戦場を描いた点。さながらFPSのようだったあのシーンは、おそらく伊藤計劃がゲーム好き(まぁMGSは基本TPSだったと思うけど……)だったことを反映する意味もあったのだろうが、残酷なはずの殺戮を「ゲーム」のように描くことで、鑑賞者自身から殺意を「麻痺」させる意図もあったように思う。逆にアレックスやウィリアムズによる殺害描写は生々しく描かれ、そこに自他における殺意の対照性が生まれている。「殺意」がこの作品で重要なテーマであるという点が必ずしも無視されたわけではなく、結果として「映画」のスペクタクルとのバランスを取るために、内面的な葛藤は抑制され、ミリタリーと暴力の印象が強く残る結果となったことが読み取れる。

自分にとって最重要なテーマを削られながらも、見終わったときに「良かった」という感想を抱くに至ったのは、結局のところそのバランスが公正に取られていたからなのだと思う。最もエンターテイメント色の強い『屍者』が、エンタメに振り切りすぎて瓦解しかけていたのとは異なり、原作ではナイーブな一人称で語られる、どこか「閉じた」ように思えたこの物語は、ある程度ビジュアル方面に力を入れ、内面的な部分を削ることで、映画としての形が整ったのではないか。

ゼロ年代の呪縛

911から続いた「テロとの戦い」の延長として近未来を描いたこの文学は、間違いなくゼロ年代的な代物だった。だが皮肉なことに、それから米大統領が2度交代した今、ジョン・ポールの「彼らは彼らで殺しあってもらう。わたしたちの世界には、指一本触れさせない」という台詞は、極めてこの2017年初頭の状況と呼応しているように感じられる。原作で描かれた「合衆国の崩壊」は映画には無かったが、クラヴィスが我々に向けて滔々と「虐殺の文法」を使うラストシーンは、むしろ原作以上にグロテスクに思えてならない。言葉がもたらす狂気。人は自分が見たいものしか見えない。物語が媒介となって伝播する恐怖。計劃が描いたゼロ年代の「先」が、このような形で「戻ってくる」など、自分は想像もしていなかった。こう考えると、公開の延期、そのさなかに起きた米大統領選というものが、何か運命付けられたものにすら思えてくる。

原作レビューのブログにて引いたアレックスの台詞を改めて引く。「地獄はここにあります。頭のなか、脳みそのなかに」。2017年以降の世界における地獄は、さてどこに現出するのか。改めて問われているように思えるこの不安は、果たして杞憂に過ぎないのだろうか。

ぼくらはまだまだ、いろいろなものに目をつむることができる。