森見登美彦作品と夜を行き、迎える朝

作家生活10周年の節目を迎えたこともあってか、昨年末ぐらいから森見登美彦氏の界隈が少し騒がしいように思う。自分自身、先のクールでは『四畳半神話大系』の再放送を見て、本屋大賞直木賞にノミネートされた『夜行』を先月読破し、先週『夜は短し歩けよ乙女』の映画を見て、今は『有頂天家族2』のアニメ放送を毎週心待ちにしている。今期の日曜は有頂天だけではなく、『アリスと蔵六』、『リトルウィッチアカデミア』と、最高に温かな作品が揃っていて強いぞ。びっくりだ。

森見登美彦を初めて読んだのはよくあるパターン、実によくあるパターンで、大学生の頃に『夜は短し歩けよ乙女』を読んだことだった。あの頃は時同じくして西尾維新にも読み耽り、大学のサークルとアルバイトで大量の文章を認めてもいた頃だったので、とかく「語る」ということに対してアンテナが鋭く、森見氏の作品における独特の語り口がなんともこころよかったように憶えている。それからすべてとは言わないが、いくらかの作品を読んだ。語り口が好みであることは今も変わりはしないが、あの「ふわふわとした世界観」に何度も触れているうちに、また別の魅力を見出すようになったのも事実だ。

森見氏の作品においては、寝て待っていても果報はない。歩いていかなければならない。というより、ふわふわとした幻想の世界に呑まれているうち、人はそこから戻れなくなるという恐怖がある。京都という街は、多くの日本国民にとっては著名な「旅先」であり、そしてその歴史と街の雰囲気も相まって、非日常的な空気を強く感じる場所だ。神仏が、たぬきが、天狗が跋扈し、そして年に幾度かの祝祭たる日々に浮かされる。森見氏の描く京都は真実ではない、真実ではないが、どこか「ありそう」と思わせる不思議な空気がある。幻想と現実が入り交じった、摩訶不思議な空間として我々の前に現れる。特に『宵山万華鏡』における幻想的な宵山の情景が好きで、自分は読了後に二度、実際の宵山にも脚を運んでいる。

だが「幻想」からはいつか離れて、日常へと回帰しなくてはならない。自らの脚で「幻想」から抜け出さなくてはならない。

『四畳半』のラストはまさに「幻想」からの回帰だった。『夜行』において、それぞれが「夜」へと誘われる「女性」についても、過去の象徴であったり、後悔であったり、あるいは理想であったり、現実からは離れたものとして描かれ、そこから「戻る」ことの可否が大きなテーマとなる。そう考えてみると、「夜は短し」と謳っていたかの作品から10年を経て、終わりなき夜を描く『夜行』へと至ったというのは、なんとも面白い。

繰り返しにはなるが、森見作品の大きな魅力の1つが「ふわふわとした世界観」を持った幻想京都ではあるのだが、その一方で常に説かれるのが現実への回帰である。どれほど空想に耽ろうと、過去や未来に思い馳せようと、現実というのは鋭く切り込んでくるものである。それに対してどう立ち向かい、そして如何に生きるのか。自分が今森見作品から得ているのは、その生き方の力強さだ。

映画『夜は短し歩けよ乙女

湯浅節たっぷり、森見節たっぷり。『四畳半神話大系』のアニメに狂喜乱舞した我々が待ち望んだものがそっくりそのままやってきた、と言っても過言ではない出来栄えだった。惜しむらくは『四畳半』同様に、原作から省かれた箇所も少なくなかったなぁというところ。「なむなむ!」「オモチロイ」といった独特の乙女語録がこの作品を唯一無二のものにしていると思うのだが、いずれも言及が1回というのは残念だった。とはいえ傑作である。新妻聖子氏のキャスティングが謎だったのだが、途中からLA LA LANDと化したので謎は無事に氷解したし、ロバート秋山の歌唱力にはびっくりだし、星野源の長台詞速台詞っぷりにもびっくりだった。

アニメ『有頂天家族2

こんなに早く2期があると思っていなかった(なんせ今年まで文庫化されていなかった)のだが、こちらも期待を裏切らない。1期も好きだし原作も好きだし、何よりこのアニメ版は一見シンプルでいてかわいくユーモラスな久米田絵と、P.A.WORKSのつくる温かな絵空間がなんとも原作にマッチしていてすばらしい。OPとEDを手がけるアーティストが1期と同じというのも、世界観の維持に大きく貢献している。

まだ2話しか放映されていないが、刮目すべきはオープニングではなかろうか。モノクロでリアルに描かれる京都の街並みと、そこで生きるキャラクターたちのコントラストになんともグッときてしまった。ただただ阿呆で優しいだけの物語ではない、1期でも描かれた現実の厳しさのようなものを、そこはかとなく感じる。人間よりは生命儚いたぬきが主人公と言うこともあってか、先に書いた「現実に立ち向かう」「生き方の力強さ」という点においては、このシリーズは森見作品の中でも群を抜いていると思う。今後に期待。

『夜行』

『夜行』を読み解くための10の疑問などというコーナーが公式で設けられるほどには難解であるらしい。最初に読み終えたときは自分も「何が起きているのか」という思いでくらくらしたが、一方で強く引き込まれる物語でもあった。おかげで1日で一気に読み切ってしまった。

先にも書いたが、ここでの「夜」とは想像、空想、妄想、幻想、その類ではないかと思う。岸田が暗室にこもり、人伝の話だけを頼りに描いたのが『夜行』であり、一方で現地に実際に赴いて描いたのが『曙光』であったということからも、それは読み取れる。これは単に「夜」=空想に引き込まれることの浅はかさを嗤う作品では当然ない。ガガーリンが広大なる無限の「夜」を背景にしたことで地球の青さに気付いたように、夜に身を寄せなければ見えてこない光がある。夜行と曙光は常に対極であり、一方だけでは成立し得ない。

この作品を手に取ったのは、似た設定の『宵山万華鏡』が好きだったからだ。『宵山』においては、終わること無く永遠にループする宵山の1日に囚われてしまう様が描かれており、共通する舞台として柳画廊も登場するので、『夜行』の習作のようにも思える。『夜行』が暗く、闇の引力のような魅力を持っているとすれば、『宵山』は祭りの綺羅びやかさと危うさを併せ持ったような作品で、これもまた対極のように綺麗だった。