そのねこがうたうとき

物語偏愛者の詭弁と戯言

『あなたの人生の物語』

テッド・チャンという作家について、新しい情報が入ることはほとんどないんですよ。何分寡作なもので、自分の認識が間違ってなければ邦訳で出ているのは『あなたの人生の物語』と、大森望編集の傑作選『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』に収録された『商人と錬金術師の門』のみ。だから去年本屋で偶然にも『あなたの人生の物語』に「映画化」を告げる帯が巻かれているのを見たときには心底驚いてしまって、海外映画ニュースやらRotten tomatoesやらも眺めながら、『メッセージ』の日本公開をずっと待っていた。本当に待っていた。

世界で一番好きな小説を考えたことはないけれど、『あなたの人生の物語』は間違いなく自分の読んだ中で五指に入る。感想を一言で言い表すなら「美しい」に尽きる。数学徒は数式に対して「美」を感じると聞くし、自分もコードの美しさについてはある程度わかるつもりでいるが、この作品に対して抱く感情はそれに近い。異星人とのファーストコンタクトから、そのコミュニケーション、さらには言語へとフォーカスして、文字通り世界の見方が180度変化してしまうような、見事な転回を描く。設定にも物語にも隙がなく完成されていて、何度読んでも恍惚の溜息を漏らす。そんな一作。

映画『メッセージ』が映像に落とし込んだのは、テッド・チャンのその独創的なSFアイディアそのものというよりは、あの原作を読んだときに覚えた完成された感覚だったように思う。映画は映像的な演出の都合からか、その入り組んだ「言語」を巡るロジックを説明しきってはいない(ヘプタポッドの言語に時制がないとか、原作にはないサピア・ウォーフの仮説への言及があるとか、ヒントはそれなりにあるのだけど)のだが、それでいて見終えたときには重厚な満足感がある。自分としてはルイーズとイアンが初めて「殻」を訪れるときの演出で傑作であることを確信できた。イアンが引き寄せられるように「殻」の外郭を手でなぞり始めたり、発光灯を先に投げ入れることで重力の変化を示したり、一つひとつの描写があまりに丁寧で驚かされた。そして何より、サウンドが素晴らしい。

原作におけるルイーズは、ヘプタポッドの言語に馴染んでいくにつれて、極自然と自らの認識様式が変化していくことを受け容れていくように描かれるが、映画での彼女は、自分の変化に戸惑いながらも、それを受け容れ「使いこなす」ことが必要なことであるのだと、半ば決断的に動いてラストへと結ばれていく。テッド・チャンの作品には、何かしらのガジェットを介して人間の認識が変化する様を描くものが多いが、それによりもたらされる情緒的な変動を描いたことで、映画としての体裁が整ったように自分には感じられた。

この映画を見たならば、ぜひ原作短編集も読んでみるべきだと勧めたい。SF的な世界観とロジックが散りばめられた物語を通過して、最終的に人間が見る世界に対する認識がぐるりと鮮やかに転回していく様は本当に美しい。『あなたの人生の物語』では、言語が人間の認識を左右する様が描かれるが、テッド・チャンの作品を読むことで、物語が人間の認識を変えていく様を自分自身で体験することができる。