the world was not enough

物語偏愛者の詭弁と戯言

アニメ『少女終末旅行』 - 絶望と仲良くなった先のセカイと日常

今年は1クールあたり1つか2つ完走しているという程度にしかアニメ見れていなくて、今期はそれが『少女終末旅行』だったのだけど、これ本当に見ておいてよかったと思える素晴らしい最終回だった。こんな名作になると思わなかった。

原作は1巻だけ読んでいるというなんとも中途半端な状態だったんだけど、あのマンガどうやって30分アニメにするんだろうなってのは放送前からすごく気になってて。原作の雰囲気、一言で言えば「静謐」という感じで、チトとユーリが結構しゃべるのはしゃべるのだけど、当然ながら他に生物がいないので、情景描写がとても静かで淡々としている。作者が『BLAME!』に影響を受けていることを明言しているので、それに近いと言えば近いかもしれない。それがアニメになって、上手く「絵」になるのかなというのが気になっていた。

(未読の人はウェブで一部読めるので是非。最新の話数は、たぶんアニメの続きにあたる気がする)

結果、実際のところとても上手く原作を映像に落とし込んでいた。それは第1話冒頭、ケッテンクラートの振動でネジがカタカタ動く描写の丁寧さからもう約束されてたかなと。静けさと、間の取り方とが絶妙で、というかなんかもう、単純に見ているだけで心地いいアニメで、ただただずっと流しっぱなしにしていても苦痛が何もないような、そういう作品だった。世界が滅びているにも関わらず、その重さは2人の旅とは関係があるようで関係なく、ただ淡々と、生きて旅をすることが描かれる。そう、生きている。それが重要。

あとアニメの要素としては音楽が秀逸で、あの程よくポップなOPとEDは、静かな2人の世界にちょうどいい彩りを添えていた。作中の2人は音楽をほぼ知らず、旅の途中で音楽に「出逢う」のだけれど、そこで流れる『雨だれの歌』もとても素敵だった。

https://gyazo.com/a701791a10d31cef0f9b377f859da523

ずっと「何か」は起こりつつも、核心である終末、戦争といったものにはあまり触れずにいたこのアニメが、最終話で突然に核心であろうものを描写した。

カナザワから受け取ったデジタルカメラに残っていた写真と動画から、2人はかつて世界にあった日常と、それを壊したであろう戦争と隕石の姿を見る。それは画面越しに見ていても切ないし、普通の作品であればキャラクターたちも泣いたり、嘆いたりということをしてもいいシーンのはずなんだけど、ここで2人から出る台詞は、

少しだけ、寂しくない気がするね。

いやーーーー、この台詞はなかなか出せないし、この台詞を出せてしまうあたりに、この作品らしさというのが最高に凝縮されていたと思う。2人は、ただただ生きているのだ。2人ぼっちの世界を。世界が終わるという理不尽の只中にいることに対して、怒りも嘆きも悲哀も無くて、2人は今ある現状をただ受け入れて、わずかな寂しさと共に生きている。ユーの象徴的な台詞に「絶望と仲良くなる」というものがあるけれど、2人はすでに絶望と仲良くなっていて、そこが終末であることとは関係なく、日常を生きているのだ。

この作品が始まる頃に、「ディストピア」という単語が話題になったりしたけれど、改めて作品を見終えて言えるのは、絶望と仲良くなってしまった2人にとって、その世界がディストピアであるかどうかはあまり関係ないんじゃないかってことだ。いわゆる現代を舞台にした「日常系」と言われる作品群は、世界と切り離されて主人公たちの日常がクローズドになるけれど、構造としてはこの作品も変わらない。2人は世界の様々な姿を知りながら進んでいくが、そこから得る様々な感情や記憶は、最終的には2人の関係性に閉じていく。それはもう、絶望の先も続いていく「生」であり、希望のようにすら見えた。

最終話の最後、ユーリが指を舐めて風向きを見て、2人が行き先を決めるシーンは、1話の描写にも繋がる。2人ぼっちの旅は円環して、この先も終わらない。2人ぼっちの世界で、ずっと2人でいてくれたらいいと思う。