the world was not enough

物語偏愛者の詭弁と戯言

伊藤計劃『From the Nothing, With Love.』ならびに10年目を迎えてのブログ名変更

細々とやってきたこのブログも10年目を迎えてしまった。そんなに経ったのか、という驚きはあるけれど、よく続けてこれたな、という気持ちはあまりない。というのも、自分は語りたがりの質ではあるので、どこかにアウトプットの場は常に持っておかないと、溢れた語りをどこに置けばいいかわからなくなると思う。(思いが)溢れたら書く、ということをずっと続けて、頑張って続けたというより、続いてしまった10年目である。

しかしまぁ、正直PVはそれほど多くない。はてなブログの読者数とfeedlyの登録数を足すと、サバ読んで100人ぐらいとだいたい言えなくはない感じの数字で、それには満足しているし別にアクセスめっちゃ欲しいとかも全然ないんだが、改めて読み返してみるとなんかうっすいなと思う。9年書いてこれか、という感じ。自分はそれほど文才があるとは思わないので、読み応えのある文章を書くのは苦手ではある。ただ、それだけがこの「うっすい」の理由でもない気がしている。

自分が最近好んでいるブログに『青春ゾンビ』がある。このブログの語り口がとても好きだ。主にポップカルチャーについて書いていて、このブログを読んでいると濃密なカルチャーのシャワーを浴びたような気分になるし、わずか2、3のエントリーを読んだだけで、ブログ主の人となりや考え方、好みといったものが手に取るようにわかる気がしてくる。言うならば親近感が湧いてくる。

思うにそれは、文章の「解像度」が成せる業なのではないか。例えば 長濱ねる1st写真集『ここから』 - 青春ゾンビ というエントリーから引いてみる。

『やれたかも委員会』の再現パートドラマの女優は、全て長濱ねるに演じさせるべきなのである。現代日本におけるファム・ファタールというのは峰不二子のような出で立ちでは決してなく、長濱ねるのような形をしている、そのことを肝に銘じておきたい。

この2文の情報量に嫉妬するのだ。なんだろう、長濱ねる評を論じているはずなのに、彼の普段の思考や嗜好が透けて見えるんだよ、これ。単純に上手いなと思うし、何より自分の見聞から丁寧に文章を編み上げているのがわかる。この文は、彼の血肉で出来ている。

最近、先月ぐらいからか。実は意図的にブログの投稿頻度を上げていた。自分は語りたがりではあるけれど、一方で遅筆でもあって、すべてを語り尽くす、いや語り尽くせるタイプではない。だから本当に好きな作品でも、なぜかエントリーにしていなかったりすることがある。でもそれって勿体ねーわって思って。自分が好きだと感じたことを、きちんと記録しておきたいし、そのときの思いは書き連ねておきたい。本来ブログはそのためにあったはずが、いつの間にかフィルターを1枚噛ませていたように思う。ブログの「解像度」を上げて、余さず様々なことを書き記したい。余さず日常を書こう、という思いは、おそらく日常を楽しむときの「解像度」を上げることにも繋がるはずだから。自分はつい抽象的な思考や感想に陥りがちなのだが、もっと生の感情を大切にしたいなと、『青春ゾンビ』を読んで今更ながらに思ったのだ。

さて、表題で挙げた作品に触れないままここまで来てしまったのだが、ブログ名をこの度変更した。『the world was not enough』は007のオマージュ、と思わせておいて、007オマージュで伊藤計劃が書いた短編『From the Nothing, With Love.』からの孫引きになる*1

The Indifference Engine (ハヤカワ文庫JA)

The Indifference Engine (ハヤカワ文庫JA)

同作は伊藤計劃の中でも最も完成度の高い1作と思っている。英国に関連する作品へのオマージュ、という伊藤が得意とする作品背景でありつつ、007の映画シリーズで度々ジェームズ・ボンドを演じる役者が替わることを、「ジェームズが死亡した際、人格のみを他の肉体に移し、偉大なる才能を生き永らえさせている」というグロテスクな設定に昇華させて、単なるオマージュには終わらせない。おまけに、ジェームズが人格を移し替える度、オリジナルの人格は「擦り切れて」いき、今ここにいるジェームズは本当にジェームズなのか、それとも彼の振る舞いを忠実になぞっただけの「哲学的ゾンビ」なのかと思い悩む様は、「意識」を中心的テーマに置いてきた伊藤作品の集大成と言ってもいいと思う。短編で仕上がったことにより、読後感も端的でありながら鮮烈だった。

「the world was not enough」は、「先代」のジェームズが「次代」のジェームズ、それも、おそらくはもはや意識が擦り切れきって、残ってはいないだろうと予想した次代に対して遺した言葉だ。ブログ、というか、このインターネットにテキストを残すこともまた、私の意識が無くなったその先へ向けて、あるいは私の意識の届かないところへ向けて綴るような、そんな行為なのかもしれないと重ねた。

例えるなら私は書物だ。いまこうして生起しつつあるテキストだ。

このテキストを読む多くの人は、きっと生身の私に会うことはないのだろうし、私が本当に「意識」を持っているかも確かめる術はない。でもだからこそ、書き連ねることに意味がある。「人生に物語は要らない」。そう、その通り。でも誰かが私のテキストに物語を見出してくれたら、それは素敵なことだと思う。そのためにブログを書いていきたい。

*1:なおブログ名変更の余談的理由としては、以前の「そのねこがうたうとき」という全平仮名は、30歳を迎えるにあたってちょっと柔らかすぎるなと感じるようになったのと、別ブログ「the world as code」と引っ掛けた、というのもある。