the world was not enough

物語偏愛者の詭弁と戯言

『ANEMONE』 - エウレカセブンとは何だったのか


映画 『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』 本予告60秒

重かった。封切り日初回上映が終わるぐらいのタイミングのTLは、それなりに絶賛の声が上がっていて驚いたのだけど、自分はこの映画を終わるなりすぐ絶賛できるような心情にはなれなかった。軽く小一時間は映画館の周りをぐるぐるふらふらして、それからカロリー高めなチキンカツの定食を平らげてエネルギーを補給して、ようやく気持ちを落ち着けることができたほどに、重かった。

交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』は、10年近くに渡り作られてきたエウレカセブンシリーズを、1つの物語へと収束させる試みだ。そのようなメタな構造を取る物語は意欲的ではあるけれども、その発想自体が別に目新しいわけじゃなくて、『スペース☆ダンディ』だってやっていたことだ。

より重要なことは、ハイエボリューションの世界における、過去の作品群の扱われ方のほう。それはハイエボ世界のエウレカが「喪ったレントンを蘇らせるため」に、何度も創っては放棄してきた「夢の世界」として登場する。放棄された世界の残骸がマルチバースへと影響を及ぼした結果、「こちらの世界」に巨大なスカブコーラルとして出現。26億人の人々を殺してきたそれは「エウレカセブン」と呼称され、こちらの世界のアネモネは、人類を守るためにエウレカセブンと、その中心にいるエウレカとの戦いに身を投じていく。アネモネエウレカセブン内部へと精神をダイブさせ、「夢の世界」で type the END に搭乗するのだが、その映像は過去の作品群を断片的に切り貼りしたもので構成されていて、エウレカセブンが過去の作品世界そのものであることを明示している。アネモネのダイブ中、こちらの世界で破壊を続ける存在「ニルヴァーシュX」の活動時間が、懐かしの1246秒という時間であることも心憎い。

Image from Gyazo

アネモネエウレカセブン内部で出逢ったエウレカは、何度世界を作り直しても常にレントンが死に至ってしまうことに絶望し、今度はアネモネの住む世界を自分の思うように作り変えようとする。しかしアネモネがそれを否定する。レントンを喪ったエウレカと同様に、 父(!)を喪っているアネモネにとっても「世界の自由な再構築」は魅力的なはずだが、父が命を賭して守ってくれた未来を捨て去ることはできないとして、苦しいことも、辛いこともあったけれど、それらすべてを受け入れることを諭す。そしてアネモネは、エウレカの手を引く。

作中における、「苦しく辛い過去」を捨てて作り直すのか、それともそれを受け入れていくのかというこの対立軸は、「ハイエボリューションは、過去のエウレカセブンシリーズをどう受け入れるのか」というメタな対立を写し込んでいる。エウレカが作中で壊しては作り直してきた「夢の世界」は、コミック版を含めたこれまでの「エウレカセブン」そのものであると描写されているし、そもそもその残骸は直接「エウレカセブン」と呼称されている。何度世界を作り直してもレントンは死んでしまった、もう希望がないと嘆くエウレカの様は、そのままエウレカセブンシリーズがこれまで辿ってきた軌跡の自己評価に見えなくはない。だがそれらを否定するのではなく受け入れて、その上で新しいものを作ることを『ANEMONE』は志向する。エウレカアネモネが手を繋ぐという、誰もが待ち望んではいたが、決して実現されなかった関係性の構築を経て、物語はまだ見ぬ結末、今度こそエウレカレントンがハッピーエンドを迎える予感を匂わせている。ハイエボリューションはそういう物語だ。

しかし結末だけを見れば素晴らしく前向きだが、そこに至る過程が極めて重い。特に、エウレカセブンの世界から、アネモネの住む「こちらの世界」へ一足早く出てきてしまったデューイ・ノヴァクが告げる真実は、聞いていて胸が痛くなった。

Image from Gyazo

お前たちが見ているエウレカセブンエウレカセブンではない。偽りの神が創っては破棄した無数の不要な世界。いわばゴミの山だ。お前たちがやってきたことはごみ処理以外の何物でもない。しかし、それも間もなく終わる。

この台詞が放たれる前の時点で、すでに過去作品の映像が幾度となく使われていることから、こちらとしては「エウレカセブン」の正体に察しはついており、この台詞は真実の暴露として機能しているわけではない。重要なのは言葉の選び方で、デューイが使う「無数の不要な世界」「ゴミの山」という形容は強すぎた。それは過去作品のアネモネや type the END、バスクードクライシスを懐かしく眺めていた我々の油断に、痛打を食らわせてくる。

世間的な評価をここで総括するつもりはないので、個人的な意見だと断っておくが、確かにエウレカセブンシリーズは必ずしも常に成功してきたものとは言いづらい。最初のTVシリーズがそれなりのハッピーエンドを迎えたのに、何故か細かな設定の改変を繰り返し、レントンエウレカに再び苦痛を味わわせるこのシリーズに、ため息を漏らすことは多々あった(もちろん、それでも楽しみにしてきたから今作も見ているのだが)。

だが、それに対して作品の側から「ゴミの山」という言葉を使われるのは訳が違う。パンフレットを読むと(あるいはハイエボ1の予告を見ていれば自明だが)、ハイエボ2は当初の予定からかなり変更を加えて、ハイエボリューションが意図するところをより強く打ち出したものだとわかるが、その結果がこの強すぎるメッセージだったのだろうか。ここまで強い言葉を使ってでもなお、前に進もうという決意表明として捉えるべきなのだろうか。このメタなメッセージは、ともすれば「我々がこれまで見てきたエウレカセブンは何だったのか」という思いすら抱かせる。

余談めいた話にはなるが、劇中のアネモネが過ごす部屋が中銀カプセルタワービルをモデルとしていたり、京都国際会館が別の役割を持った建物*1としてカットインされたり、いずれも半世紀近い歴史を持つモダニズム建築が本作では使われている。これもまた、古いものを壊すのではなくて、受け入れて引き継いでいくというメタファーかもしれないと思う。

パンフレットで名塚佳織小清水亜美の両声優がいずれも同じことを語っていて面白いのだが、本作ではエウレカアネモネの関係がTV版と逆転している。周囲に恵まれ、多くの人たちの後押しを受けて「主人公」として危機に立ち向かうアネモネ*2と、孤独な戦いの果てに世界を呪うエウレカ

メタに考えても、TV版でせっかく幸せを手に入れたと思ったのに、もう一度同じような話を繰り返したら今度はレントンが瀕死になったり、瀕死になったので世界を作り替えたり、子どもが生まれたと思ったら死んだり子どもと生き別れになったり、別世界へ行ったり、自分は何度こんなことを繰り返すのだろうとエウレカが嘆くのはわからなくない。

それを救える存在がアネモネだったというのは面白い話で、TV版で対の存在として描かれ、エウレカと敵対しながらも嫉妬していた彼女だったから、この役回りに収まることにしっくり来るのだろう。2人が初めて手をつなげたことは、もしかしたらアネモネにとっても救いだったのではないかと思う。

ニルヴァーシュと呼応する、コンパクドライブをかざすレントンの姿で幕を閉じるのもとてもエウレカセブンらしい絵面だったし、対立したもの、相容れないもの、分け隔てられたものたちが、手をつなぐ方へ向かっていく流れは、待ち望んでいたエウレカセブンに近いものだった。しかしそれ以上にショックが大きい。制作陣がどこまで意図していたのかはわからないが、まるで過去の作品群を踏み台にするかのようなこの構成は、長くシリーズを追ってきた身には堪えるものがあった。これでエウレカが世界を作り変えるのは最後になり、今度こそ本当にレントンとのハッピーエンドを迎えてくれるのだろうか。エウレカが再構築した世界の終末を嘆き、「ゴミの山」を形成するのは、これで最後なのだろうか。ハイエボリューションという映画が、どこを目指しているのかはよくわかったが、その評価は「3」次第でもある。

Image from Gyazo

*1:具体的に何の建物だったかは失念したが、アネモネが属する組織「アシッド」関連だったと思われる。

*2:TV版とは別世界のアネモネとはいえ、アネモネがこんな立ち位置に置かれていて、「両親」がいたってだけで泣けてしまいますね。