ぼかりすが変えるVOCALOIDの未来

かなり機を逸した感があるけど、ぼかりすについて思うところをまとめます。ぼかりすとは何なのか? 具体的にどのような音になるのか?というのはリンクを貼るだけで省略。

ぼかりす曲まとめ

通常曲とぼかりすの比較でわかりやすいのはこれ。

裏技でLv100の感覚

で、要するにぼかりすって「誰でも神調教が可能に!」という技術な訳で。確かにぼかりす楽曲と既存のミク楽曲を聴き比べると全然違う。それはもちろん昨年『PROLOGUE』が出た時点でわかっていたことではあるんだけど、今回α版が出て、さまざまな楽曲が表に出てきたことで、改めて思い知らされた気分。

ただ、ぼかりすを「神調教」と呼んでいいのかは少々疑問が残る。字面から厳密な意味を取れば、「神調教」とは、ミクの調教=歌声のクリエイト技術が神的であることを指す言葉だ。でもぼかりすは人間の生身の歌声を使っているわけで、そこにPの神的技術は介入していない。結果的には同様のものができているんだけど過程が違う。なんというか、「裏技を使ってLv100にしました」の気分なのだ。屁理屈かもしれないが、個人的には「神調教」というのとは少し違うと思っている。

ぼかりすはボカロの究極解ではない

神調教がボカロ界隈ではもてはやされ、賞賛されていることからもわかる通り、より人間に近い歌声を作り出すことはボカロにとって重要な要素のひとつだ。その点からすれば、ぼかりすは調教における究極解を与えてしまったといえる。人間の歌声そのものが反映されているのだから、これ以上に「人間っぽい」は基本的にありえない。

だけどそれはあくまで「調教の究極解」であって、「ボカロの究極解」ではない。というか、いわゆる神調教に比べても、ぼかりすは生身の声により近いものに仕上がっているわけで、「裏技で神調教」も「調教の究極解」も的を外した条件だ。

正確に言えば、ぼかりすはこれまでにない、まったく新しいボカロの音を作り出したのだ。生身の声と、機械的な声であるVOCALOIDの融合。それは今までの調教技術では到達することのできない領域だと思う。今までに上がった曲を聴いた印象でも、元になった人間の歌声があからさまに反映されていて、ある意味では不必要なまでに人間っぽい。歌い手の癖なども直にぼかりすに影響を及ぼしている。

ぼかりすはあくまで、ボカロの表現方法の一つを増やしただけに過ぎないと僕は思っている。神調教だけが最高のボカロを意味するわけではない。わざと機械らしさを出した方が良いときもあるし、ちょっと舌っ足らずなところが可愛いときだってある。逆に、ぼかりすを使って人間がバリバリ歌っているかのように聴かせた方がいいときもある。それは各Pが出したい曲調によるし、どれが「正解」というわけではない。

だからぼかりすの登場により、ボカロがぼかりすだらけになるなんてことは心配していない。ほぼ確実にそれはないと思っている。

音楽にとって、声とは何なのか

声は一人ひとりに与えられた楽器だ。どれ一つとして同じ楽器はない。先日、ロックミュージシャン・忌野清志郎が死去したけど、彼の音楽は今後滅びないとしても、彼のあの素晴らしい「声音」はもう聴けない。悲しいけれど。

VOCALOIDだって同じことだ。初音ミク鏡音リン・レン巡音ルカ*1という、独特の音色を持った楽器だ。そして幸いなことに、VOCALOIDは機械の音であるがために、その音色を様々に変えることだってできる。「ボカロなんて誰が歌わせても同じ声でつまんねェ」とか言うヤツは、これを聴けェ!

そう、決してボカロの声は一辺倒じゃない。アレンジすれば、曲に合わせて様々な声音を出してくれる。そしてぼかりすの登場により、一人ひとり違う人間の声音と、ミクの声音を合わせて、まったく新しい声音を生み出せるようになった。ぼかりすを扱う人によって、ミクの声音も変わるだなんて、こんなに面白いことはない。

ただ、ボーカルを持ってこなければならないことは、一部のPにとっては負担になるかもしれない。ボーカルがいないからミクに歌ってもらっていた。そういうPにはぼかりすを扱うことは難しくなる。もちろん、自分で歌ってもいいんだけど。

僕としては「歌ってみた」の歌い手がぼかりすを使ってくれないかな、と思っている。先の杏あめさんが一例だ。あの動画では「ミク使わずに自分で歌えばwww」みたいな米も入っているけど、そうじゃない。声音は楽器。楽器が違えば、音楽も表情を変える。ピアノ独奏曲をバイオリンで弾こうという試みに等しい。

ぼかりすの登場は、「音楽にとって、声とは何なのか」という命題を突きつけてくれたように思う。ボカロPたちがぼかりすを使うとき、僕たちがぼかりす曲を聴くとき、これから少なからず悩まされていくんじゃないかな。

*1:他にもいますよ忘れてないよ。