日本語の「乱れ」について少し真剣に考えてみる

日本語の乱れに関する話ってよくすったもんだしてるので、その度に思ってることをちょこっとまとめてみる。僕は大学で言語学をちょこっとかじった程度の学部生なので、あまり学術的な知識はないので期待はしないで下さい。ちなみに言語学では特定言語に対する価値判断はしないので、日本語が乱れてるとか「汚い日本語」なんて扱い方はしないです。

日本語が乱れるなら「正しい日本語」があるはず

「乱れる」というぐらいだから「乱れてない」、つまり正しい状態の日本語ってのが想定されて然るべきなんでしょうが、そんなの常日頃考えている人っているんですかね。いざ「正しい日本語を示せ」と言われたら何を持ってくるでしょう? 国語辞書かな。でもあれって私企業が作ったものに過ぎないんだし、そんなものを「正しい」と言い張っちゃっていいのかな?ってのは少々疑問。新○解みたいなすごく楽しい辞書もあるしね……。

一応文化庁文化審議会国語分科会っていう、国語の改善とかを担当する公的な部署があるんですけど、こんなの知ってる人の方が少ないでしょうし、日本語の隅々まで「これが正しいんですよ!」と告示してくれているわけでもない。

「正しい日本語」の定義はすごく恣意的じゃないかなと思うのですよ。正しい日本語に明示されたソースはなくて、なんとなく「みんなが正しいと思ってる日本語」みたいなものが共有されてるに過ぎないのではないかと。でも、多数派の日本語が本当に「正しい」のかは別の話。時折テレビで「実は間違っている日本語」を特集している通り、多数派が使っていても、実は間違っている場合も少なくないんです*1

ならもう、「正しい」という価値判断自体が不毛ってことでいいんじゃないでしょうか。正しい/正しくないとかについては、あまり口を出さないのが一番賢い生き方の気がしてなりません。

それでも「正しい日本語」は知っているべきだ

ただね、どうしてもビジネス上敬語を間違えたらアレな場合もあるでしょうし、正しい日本語(とされているもの)を知っといて損はないとも思うのですよ。いつもそれを使え!とは言わない。普段どんなしゃべり方しても構わないけど、正式な場ではしっかりしろよと。「長いものには巻かれとけ」という話ではありません。普段は「俺」でいいけど仕事では「私」にしなさいよとか、そういう話です。

ら抜き言葉」の是非は、
それ自体がふさわしいかどうかではない。

悪法も法であるように、文法は文法。
文法的に違えば、文法のテストなら×がつく。
だから、ら抜き言葉は間違い。
ただ、それだけの話だ。

就職やお見合い、進学時の面接で「ら抜き言葉」を
使ったために、聞く人が悪印象を持ち
不本意な結果になったとして、擁護派は責任をとれるか?

「ら抜き言葉」を「正しい」と言い張るくだらなさ:生活の中の理性と非合理

ら抜き言葉」を使ったがために相手が損をした場合、どう補償するか。それは別に「TPOが弁えられませんでした」とか「運が悪かった」とかいうだけの話で、普段から「ら抜き」を正してないからということではないでしょう。「仕事の場で損をするかもしれないから、普段から一人称は「私」にしとけ!」って言いますかね? 言わないでしょう。スーツ着ていくべき場に私服で行って怒られたなら、それは本人の責任に他なりません。

「運が悪かった」というのは、今果たして「ら抜き」に悪印象をもつような人間がどれだけいるのかが疑問だってことです。「ら抜き」は若干の市民権を得てきたようにも思えるし、一部地方では元々「ら抜き」を使ってたって話もある。そういう議論の分かれている言葉に対して、極端な反対派に立っている人間に出逢ってしまうこと自体、ある意味運が悪いのかなと。もし出逢ってしまったら、その場は謝れば済む話。

悪法は法(律)だけど、文法は法(則)であって法(律)ではないのです。文法的に間違っている用法は、文法第一主義者には「誤っている」と言われるでしょう。でも文法なぞ気にしてない、あるいは理解していない人もいて、そういう人からは弾劾なぞされないわけです。両者にどう応対するかは、コミュニケーションの問題としか言いようがない。

ら抜き言葉」は正当な進化と考える

ら抜き言葉」を合理的な変化だと考える人は少なくないようですが、僕もその立場を取ります。「られる」という助動詞は受身・可能・尊敬など複数の意味を持っていますが、あえて「ら」を抜くことにより可能の意味に限定することができ、文意がわかりやすくなる。むしろ最近は積極的に使ってさえいるほど。

言葉を「変えるな」って方が無理な注文だし、むしろ変えることによってより合理的で、利便性の高い文法が生まれる場合もある。だから言語の変化に積極的に意味を見出し、新しい言葉を使っていくことには意義があると考えます。それが次第に定着して、多数派を獲得することで、絶えず言葉は進化してきたのだから。

だけどその変化が定着するまでは「乱れ」として謗りを受けることはやむを得ないし、なかなかこの辺りは難しいなといつも思います。だから結局はTPOを弁えて言葉を使いわけるしかない。

言葉遣いを巡る問題って、それ以上でもなきゃそれ以下でもないんですよ。何が正しいとかどこそこが権威的に決めたとかどうでもよくて、適切なコミュニケーションを取れるか否か。判断基準はそれだけです。

*1:そんなの誰も使わないなら雑学にしかならないけど。