矮小な集団の中での才を描くということ(『氷菓』について)

ラノベは普段あまり読まないのだけど、ちょっと前にとある本を衝動買いというか、ジャケ買いしたのだが。

まぁなんというか、率直に言うとあまり面白くなくて。物語の筋としてはいじめられてる女の子がいて、その子に何かしてあげたいんだけど何も出来ずにいる幼馴染の男の子がいて、そんな二人の前に謎の男女の大学生が現れて、その男の方を中心に「ダメ人間を社会へ還元する還りの会」とやらを結成していじめっ子への復習を狙う……っていうよくありそうであまりなさそうな感じのもの。それの何が面白くなかったって、なんだか物語が閉じているのだ。内輪のノリなのだ。還りの会の中心となった大学生の宇佐美さんは、主人公からするとなんかすげー人で、自分に出来ないことをちょちょいとやっちゃう超人みたいに映ってるようなんだけど、その超人具合がよくわからない。主人公がこっそり考えてたことズバリ見抜いてましたとか、校内に監視カメラ仕掛けるようなギリギリの策を大胆不敵に決行しちゃうとか、なんかそんな程度。めだかちゃんとか哀川さんとかそういうレベルの違う人たちをいくらでも見てきた身としては、「いやお前の少ない人生経験からするとすげー人に見えるのかもしんないけど、そいつそんな大したことないよ?」とか思っちゃう。いや、あの二人と一般人比べるのはさすがに酷か。まぁとにかく、小さな世界の中で小さなすごい人に会ったちっぽけな主人公が、なんだか空回りに空回って結局よくわからないうちにハッピーエンドを迎えた小説にしか読めなかったのだ。

で、こういう「小さな世界で『すごい』と言い合う、成り切れない高校生たちに感じるむずがゆさ」みたいなのって、『氷菓』でも感じていたのだけど。あの作品は一応ミステリーを唄ってるけど、正直ミステリーの枠に入るとは思ってない。すげー元も子もない言い方になるけど、例えば最初の氷菓編って、要するに当時を知るOBに訊けば一発なわけじゃないですか。あの流れの中でほーたろーが本当の意味で謎解いたのって、多分「氷菓」のダジャレに関する部分だけだと思う。大して謎でもないことを謎に見立てて推理ごっこをやることが多いわけで、その中でほーたろーの推理力、洞察力的なものが小さな集団の中で浮かび上がってくるという、ただそれだけの流れなわけだ。あ、でもクドリャフカの順番とか、本当に「謎」が用意されている話もあったけどね。

ただし、氷菓の場合はその「矮小な評価」が上手く、本当に上手く働いた作品だなと感じた。ほーたろーは確かにえるや智志から見れば、目をキラキラさせるような、嫉妬を覚えるような才なのだろうけど、彼は完璧としては描かれなかった。氷菓編は正直、今書いたようなことを感じて鼻白んで見てたような節があったのだけど、愚者のエンドロール編の終盤あたり、入須先輩の思惑が明かされたあたりから「面白い」と感じるようになった。彼の才はおそらく、そこまでずば抜け切ったものではない。古典部、あるいは高校という狭い集団の中だからこそ特筆されるものであり、きっとこの先、どこかで壁にぶつかるのだろうと思う。その「壁」を随分と早い段階で描いてしまい、ほーたろーが必要以上に自意識を膨らませなかったというのは、惜しくもあり嬉しくもあり。高校時代の「すごいヤツ」なんて、所詮は井の中の蛙でしかなくて、いつかはもっと広い世界に埋もれてしまうのだろうし、だけどその程度の才にすら追いつけない者もいるし、またそれを上手いこと利用してしまう人もいるしという、その思春期独特の人間関係を上手いこと描いていたよなーと思うのだ。ああ、キャッチコピーにある通りこれは青春群像劇なんだよなと納得した。で、その辺を演出で魅せるとなれば、京アニは本当に丁寧で素晴らしい。

氷菓編はなんだか暗くて、扱った「謎」自体もパッとしないものだったけど、そこで見切らなくてよかった。最終話、将来の道がもう決まりきっているかのように語ってしまうほーたろーとえるの姿は、なんだか微笑ましくもあり、この先をもっと見てみたいなーと思う作品だった。聞くところによると彼らが高校を卒業するまで続ける構想があるらしいけど、続きもアニメ化してくれると嬉しいんだけどなー。とりあえずは、原作の続きを買ってみようと思う。

ふたりの距離の概算 (角川文庫)
米澤 穂信
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