『アンドレアス・グルスキー展』空虚としての世界

2013-08-04 01.02.27

ハイカルチャーについて語ることなんざ出来はしないんだけど、語るに落ちてるからといってずっと語ることを避けていては、いつまで経っても語れるようになんてならない。そもそも芸術に対して「知らない者は語ってはならない」なんてことはない。初見の人でも、その分野に深い含蓄がある人でも、同じように感じたままを喋ればいいと思うのだ。それが文化の裾野を広げるということだし、それでこそ文化と呼べるのだと思う。特にオタク界隈は「よそ者」を排除することが少なくないので、自戒を込めつつ。というか決めたのだ。もう何でも書いてやると。遠慮なんてせずに。

……さて、十二分な言い訳をした上で、このブログ始まって以来ハイカルチャーに言及するわけなのだが。個人的にハイカルチャーへの憧れ、みたいなものはずっとある。というより、何か一分野でいいからハイカルチャーに長けていると、だいぶ世の中違って見えるんじゃないかなーという漠然とした思い。そもそもにしてサブカルチャーというのは読んで字の如く、メイン(ハイ)カルチャーに対するサブなのだから、サブカルに高じる上でもハイカルチャーは知っておくべきだろうと。だからというわけではないが、美術館にはそこそこ行く。他人様の脳内から見た世界を覗きに行くのが好きだ。日常から離れて、今いる世界から一歩退いていけるような、そういう気分に浸れるのが好きだ。ちなみにハイカルチャータグがないので、サブカルタグで代用している。

国立新美術館で開催中のアンドレアス・グルスキー展。国内では初の個展ということで、その名を知っていただけではなかったのだが、駅で見かけたポスターインパクトがハンパなかったので行ってみた。ちなみに、会場で実際にポスターと同じ写真を見てわかったのだが、リンク先にあるこの写真はスーパーカミオカンデを写したものらしい。東南アジアの仏閣の類かと想像していたのだが、まさか国内だったとは。てか、カミオカンデってこんなのだったのか。

彼の写真はただ平坦に、均質に世界を切り取る。一見単なる幾何学文様か、カラフルな点描のようにしか見えない。近付いて目を凝らして、ようやく被写体が何であるか理解する。あるいは、近付いても尚、何者を写しているのかはわからないままだ。遠近感はなく、光の濃淡もなく。ただまっすぐに、そこにあるものを写し出す。

被写体が何であるかは関係なく。ただ切り取る。そこでは残酷なまでにすべてが平等で。例えば自転車レースの写真。ぐっとロングで写されたその写真は、一見ただの山肌を写した写真としか見えない。主役であるべき選手たちは、主役のようには扱われることなく、他の観客らと同じただの点としか認識できない。マドンナですら同じように扱われ、写真の中で彼女を見つけ出すことは難しい。しかし、一人ひとりの姿がまったく見えないというわけでもなく、マクロとミクロが上手く混在したような、不思議な写真。巨視的というのか、普段目にしているはずのもの、その全体をただ捉えてしまうと、被写体そのものの意味から離れ、また別の意味を与えられるように思える。色とりどりの服を着た人々が行き交う商品取引所はカラフルな点描に見えるし、先のスーパーカミオカンデもまた、それが何であるかを別にしてただ美しい。写真ってもっとメッセージが全面に出てくるような、押し付けがましいようなものも少なくないと思うのだが、彼の写真はこっちに解釈を丸投げしてくるような、そういう印象を抱く。彼の写真だと、南極ですらただの絵の具の塊にしか見えないのだ(まぁ実際のとこ、いろいろメッセージ性を含ませてはいるみたいなんだけど)。

元々世界に意味や物語なんてないのだと思う。『海神』という合唱曲に、「海は広がりと空虚」という一節があるが、同じように「世界は広がりと空虚」であって、そこに意味を埋め込むのは我々人間の方だ。グルスキーの撮る写真は「空虚」としての世界であって、だから身構えずに対峙することができる。大きく捉えられた世界の中で、米粒のように均等に配置された人々の中に、自分の姿を想像する。普段思い悩んでいたいろんな自分の物語は、大きな世界を前にして埋没していくような、そういう感覚に襲われる。何もかもが虚無であり、自由であるという感覚。でもそれはニヒリズムではなくて、だからこそ自ら物語を埋め込んでいけるのだという希望でもある。

そんなこんなでだいぶ気に入ってしまい、初めて美術展のカタログなるものを買ってしまった。現代美術はただ感じるというより、頭を使うから心地良い。例え正解でなくても良いのだ。自分なりの意味を見つけられれば、それだけで価値がある。