キャラクターと「中の人」は不可分なのか

亡くなった永井さんの代役となる、新たな波平役が茶風林さんに決まったとか。茶風林さんって永井さんみたいな「おじいちゃん」声ではないけれど、考えてみれば波平って(あの頭で)定年前のサラリーマンなんだし、ここらでキャストの若返りってのはいいんじゃないかなーと思う。声優の交代劇って毎度物議を醸すものではあるが、TL見た限りではそんなに反感もなさそうで。まあ、茶風林さんにかかるプレッシャーって相当なものだと思うけど。

アニメキャラクターというのは絵と声により形作られるので、声優の交代に対する違和感はかなり強い。それでも中の人が物故されたり、いろいろな理由で「声優の交代」は起こりうる。そのたびに思うのだけど、旧「中の人」に似た演技をする人と、イチから自分が思い描くキャラクター像を新たに演じる人と、2パターンの交代があるような気がしている。

前者で真っ先に浮かぶのがルパン三世。自分はこの交代劇の頃にはまだ生まれていないけど、山田康雄氏が亡くなった後に引き継いだのが、もともとルパン三世のモノマネをしていた栗田貫一氏だったわけで、明確に「山田ルパン」のイメージを壊さないための交代だったんだと思う。確かにカリオストロを初めて見た時は、すげー似てるもんでビックリした。母はいまだに「山田さんの方が軽やかな演技だった」とか言ってるけど。

後者だとドラえもんがそうかな。あれも制作側の意図ではあるが、ドラえもんという作品自体をガラリとリファインするにあたり、ドラえもんの声も大きくイメージが異なる水田わさび氏に引き継がれた。で、これについてはかなりの反感というか、いまだに「慣れない」という声がある気がする。自分はもう慣れちゃったし、むしろ大山声は大山のぶ代さん自身のキャラクターとして認識し始めつつあるけど(モノクマは大山声自体のキャラクター性を活用した例だと思う)。

もちろん旧「中の人」と似た演技をしてもらった方が視聴者としては違和感がないし、キャラクターのイメージも崩れない。でもどうなんだろう。声優さんってそれぞれ持ち味があるわけだし、個々人がそれぞれ代替可能なわけじゃない。キャラクターを演じるのではなく、いわば旧「中の人」を「演じる」ことになるというのは、声優個人の色を壊してしまうことにならないかな、という思いが自分にはある。もちろん、山ちゃんみたいにいろんな声音を再現できてしまう、器用な人はいるのだが。銭形警部の声はかなりビビったし、あれはあれでもうひとつの個性だわねぇ。

一方で単純な比較ができる対象ではないが、芝居なんかだと同じ役を複数人が演じる、要はダブルキャストなんてのはザラだ。そこではあまり、キャラクターと演者の結びつきは強くないように思う。というよりはむしろ、誰が演じるキャラクターが好きか?ということに焦点が当たったりする。今度上演される『ラブネバーダイ』だとオペラ座の怪人で言う「ファントム」の役を市村正親鹿賀丈史が演じるわけだけど、この2人のイメージはかなり異なる。それこそレ・ミゼラブルでは片やテナルディエで、片やジャベールだった2人だ。観客はどちらが演じるファントムを見たいのか考え、チケットを買う。僕は鹿賀丈史のキリッとパキッとしたキャラクターが好きで、彼の演じるファントムが見たかったので、そちらのチケットを買った。

面白いのは、テニスの王子様。アニメではもちろん声優は固定なのだが、ミュージカルだとキャストが代替わりしている。このあたり、ファンはどういう楽しみ方をしていたのか気になる。一方でハンターハンターミュージカルでは声優がキャラを演じてたからなぁ。今思うと、竹内さん、郷田さん、高橋さんあたりが同じステージでミュージカルやってたってなんか面白い。

ことアニメにおいては、「中の人」とキャラクターの結びつきはあまりに強い。それこそ声優自身がキャラクターと同一視されるぐらいに。塩沢兼人さんの没後、ぶりぶりざえもんが声を失ったように。