人はなぜ初音ミクを語るのか

初音ミクはなぜ世界を変えたのか?
柴那典
太田出版
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ブームに一歩遅れてレビューすることが多いことで知られるブログです。別に知られちゃいないです。つわけでやっと読み終えた。読み終えたのは実のところ先々週ぐらいなので、そっからさらにタイムラグがあるわけだが。

内容面ではもう多くのブログなどで語られている通り。この本は初音ミク開始以来、ようやくその全貌(流れ、変遷)を簡潔にまとめた初めてのものであり、また「初音ミク」を巡るシーンを音楽史の流れに位置づけたものでもあると。確かにその通りで、これまでVOCALOIDを追ってきた人間にとっては馴染み深い(というか懐かしい)様々な出来事が本当によくまとまっている。これまでブログや雑誌の特集などで断片的なサマリーが出ることは多かったけど、やはり「通史」としてここまでまとめられたのは初めてなんじゃないかと。

物議を醸してもいるサード・サマー・オブ・ラブのあたりは、多少差っ引いて読めばいいんじゃないですかねぇという気がする。『サード』についてはすでにサイケデリックが当てはめられているので、サード=ボカロという図式が一般化することはまずないと思う。でも、だからといってここまでのムーブメントを「信者が騒いでるだけ」と無視できるわけもなく、著者の主張の力点は「サマー・オブ・ラブに匹敵する何かが起きている」ということなんだろうと解釈している。というか、このボカロを巡る国を超えたムーブメントがいったい何なのか?という点については、おそらく当のボカロファン自身が一番戸惑っていると思うのだ(レディ・ガガやBUMPは「ああ、まぁ、そうね」って感じだったが、ファレル・ウィリアムスについては「ふぁっ?!」って感じだった)。そこに上手いこと収まりをつけるとしたら、サードってことになるんじゃね?ということ。

オタクというのは元来語りたがりではあるが、ボカロに関してもとにかく「語られて」きた。そのキャラクター性、楽器としての性質、シーンの転換を促した種々の楽曲などなど、これまでの「ボカロ論壇」の趨勢をすべて取り上げるとキリがない。今回についてもボカロを特集した本に関してフミカレコーズがさらに感想文集を出すなど、語りを語るメタ構造が随所で見られる。繰り返しにはなるが、このムーブメントは「語らなきゃわからん」のだ。定点観測するには「VOCALOID」という言葉が表すシーンの幅はあまりに広く、深くなりすぎた。都度立ち止まり、「今ここでは何が起きているのか?」ということをまとめ、話し合っていかなくては、初音ミクは存在し得ない。楽器でもなければ単なるキャラクターでもなく、結局「初音ミク」とは有り体の言い方をすれば「物語」であって、物語に駆動されることで彼女は生きる。逆に物語の呪縛が解かれれば、彼女はただの楽器として偏在できるようになるのだと思うが、そんな日がやってくるのかはわからない。

今のところ、既存の「物語」をまったく無視して成功した初音ミクとのコラボレーションは寡聞にして知らない。THE ENDのような突如降ってきたかのような作品ですら、本書内でも書かれている通り、かつてからシーンに存在した「初音ミクの死」というテーマに根ざしている。誰かが彼女を語り、別の誰かがそれを語り継ぎ、絵や曲、さらにはライブといった形にすることで、徐々に彼女はその裾野を広げていった。この世界中から集積した情報量こそが「初音ミク」の正体だし、だからこそ彼女は「世界を変えた」とまで言われるのだろうと思う(そういえば、彼女が数多の音楽を統べる「女神」であるという話は以前にも書いていた

問題は、彼女のファンが彼女について語る限り、その語りは「物語」の一部として内包されざるを得ないということだ。そろそろこの物語自体を外から批判する試みがあっていい頃合いだと自分は思う。