米代恭『あげくの果てのカノン』完結

愛を貫くことは美徳とされる。それは純愛とも呼ばれ、一時は献身的な愛をテーマにしたドラマや映画が量産される時期もあった。一人の人をずっと思い続けるとはなんと尊く、なんと美しいことなのかと、みなが羨み焦がれ、数多の作品を消費していた。

しかしここには一つの但し書きが付くわけで、貫く愛が美徳たるのは、互いに愛し合っている場合だけなのだ。一方的な愛を何年も何年も貫くというのは一般的には好まれず、場合によっては犯罪者のような扱いを受けたり、あるいはまさに犯罪そのものに走ってしまうこともある。『あげくの果てのカノン』における高月かのんもまた、貫く愛の行く末は不倫という不道徳な行為であり、SF設定と密接に絡みついた本作のストーリーのせいで、それは文字通り世界の命運すらも揺らがせるという盛大なモラルハザードへ繋がっていく。

改めてかのんというキャラクターを眺めながら考え直すと、では純愛とされる愛と、不道徳とされる愛との違いはどこにあるのだろうと思わされる。純愛ブームの代表作として『世界の中心で、愛をさけぶ』が挙がると思うが、同作では死に際のヒロインを病院から連れ出し、無謀にもオーストラリアまで連れて行こうとして、結局空港で力尽きるというシーンがある。見ようによっては不道徳で、命を軽んじている行為だと誹りを受けそうなシーンだが、これは切ない愛の表出として、同作一番の泣きどころでもある。愛のために命の危機を冒し、当人のみならず(当人はそれが幸せかもしれないが)周囲の人々へ迷惑をかけることと、長年の愛の結実として不倫へと陥ることと、どちらがより優れたものなのか、あるいはどちらに妥当性があるのかなど、秤にかけることはできるんだろうか。世間一般の倫理観に照らし合わせてどうであれ、決して変わることなく貫かれる思いに対しては、我々は嫉妬せざるを得ない。それは本作における境が、かのんに焦がれたのと同じように。

あげくの果てのカノン』最終5巻は、ただその「貫かれる思い」という一点を描くために物語を一気に収束させたような、スピード感に溢れた1冊だった。4巻を読み終えた時点では、よもやこの漫画があと1冊で終わるなどとは思っていなかったし、それは自分だけというわけでもないだろうと想像するのだが、結局高月かのんはどこまでも自己中心的で、自らの都合により、自らのタイミングで、読者さえも置いてきぼりにして、愛を貫いたまま物語の幕を閉じる。かのんの不倫をきっかけに壊れた友人関係の修復を願う同級生の言葉も、4巻で突如恋愛事情に参戦してきた松木平も、その行く末については一切フォローはされず、あまりの潔さにむしろ笑ってしまった。

秀逸なのは5巻の構造で、途中までは4巻までと打って変わったかのんの思考と行動に憤りすら覚えそうになるのだが、それが最後の1ページで見事に全部覆ってしまう。

先輩の世界にいられるって思えるだけで幸せなの。

1巻でそう呟いていたかのんは、先輩のいない世界へ逃げることで恋を忘れようとする。

あなたが私の知らない人になってくれることで、やっと、この物語から、降りられる。

それでも結局逃げ切ることはできなかった。

「人は変わるもの」と主張していた境が、おそらくはパッヘルベルのカノンを耳にして、かのんのことを思い出すというラストシーンは、ずっと無慈悲であった本作において、あまりに綺麗すぎる奇跡に見えた。夫が「変わる」ことを執拗なまでに許せず、自分の思い通りになると思っていた初穂ですらも、最終的には「手に負えない」ことを認めて物語から去ったのに、唯一境の記憶を取り戻したのが音楽というのは、なんともファンタジックな結末ではある。それは皮肉にも、同じ旋律を繰り返すカノンと同様、高月かのんを再び同じ「恋」のループへと引き戻してしまうわけだが。初穂のように、自らの気持ちに自分でケリをつけようともしなかったかのんは、結局逃げることさえ満足にはできなかった。

2巻の帯において、村田沙耶香は「『恋』の根源には一体何があるのか。震えながらも、その答えが知りたくて、この物語から目を離すことができない」と書いていた。自分もおそらく同じで、常軌を逸して貫かれる愛の行く末を知りたかったのだが、結局そこに答えなどはなかった。永遠に続く愛に果てなどないのだ。あのラストシーンの先で、高月かのんが先輩と添い遂げるのかはわからないし、そんなことはもうどうだっていい。彼女にとって、ただ愛すること自体が幸せなのだから。

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高月かのんの行き着いた「あげくの果て」には果てがないわけで、救いはなかったようにしか見えない。それでも、あのラストには安堵している自分がいた。いや、5巻の構造を考えるに、安堵させられたと言うべきか。高月かのんは変わらない。この5巻は、それを示すラスト1ページのためだけに存在していたように思える。

一途に貫かれる愛に、人はどうしようもなく惹かれてしまう。それがグロテスクで終わりのない地獄のようでも、変わらないものがあるというただその事実が、高月かのんというキャラクターの存在が、物語の外にいる自分にとっては救いのように思えてならなかった。