阿久津隆『読書の日記』と、fuzkueというカフェについて

お気に入りのカフェの店主が商業出版で本を出す、という、おそらく今後生きていても二度とはないかもしれない経験をした。

新宿と渋谷の狭間ぐらいに初台というとても良い土地があるのだけど、そこにあるfuzkueというカフェにここ1年半ほど頻繁に訪れている。自分は基本的にひとりで過ごすことが多く、またひとりでいることを好む人間でもあるのだが、意外に長くひとりで過ごせる場所というのは少ない。チェーン系カフェはなんとなく騒々しくて長居する気になれないし、個人店はあまりに長くいると申し訳ない気分になってきてしまい、長居可能なのは広くて、それほど混まないような場所に限られる。酒が飲めれば選択肢がもう少し増えそうな気もするが、残念ながら自分は下戸ときている。そこにつけて、このfuzkueというカフェは面白いことにおひとりさま推奨、長居歓迎という場所だ。

http://fuzkue.com/about

詳しいことは今貼ったURLに飛んで読んだほうが早い。「本の読める店」がコンセプトで、そのために全力で環境を調えているような店だ。その分、URL先にあるように守らなくてはならないレギュレーションは多くて、嫌気が差す人もいそうな気がするけれど、逆にその縛りが心地いい人種にはうってつけの場所といっていい。なんというか、ある程度の文脈や文化を共有して、お互い直接コミュニケーションはしなくとも、心地の良い空間を作りましょうよという、そういう暗黙の協力で作られた場が自分は好きなのだ。音楽のライブやクラブでも似た空気を感じることはある。あれは個々に好きに楽しんでいる一方で、お約束のジャンプやコールがあったりもして、みんなで一緒に盛り上げて作る空間にも違いない。

自分がこの店を好んでいるのは、そのコンセプトがピタリときたというのもあるし、苦味がきちんとした深煎りコーヒーやスパイスの香りが真正面から襲ってくるチキンカレーが好きだというのもあるけれど、それ以上に店主の阿久津氏に惹かれたところが大きい。先のウェブサイトにも「読みもの」というコーナーがあって、そこからいくつか読んでみるだけでもわかるのだが、この人が「本の読める店」を作ったのは自分がほしい店をつくったのであり、そして読むことと同時に、書くこともまた非常に好きな人なのだと思う。初来店のときのことは今でも覚えているが、各席に置かれているメニューというか、お店の説明書きというか、まぁメニューだと思って取り上げた紙の束が、A4数十枚を目玉クリップでまとめた、およそ個人経営のカフェのメニューとは思えない分厚さだったことに、つい笑いそうになってしまった。fuzkueは来る前に先のページや、Twitterを読んでいたので、言葉を尽くす人なのだろうとは想定していたけれど、よもやお店に着いても店主の書いた「読みもの」が読めるとは思っていなかった。紙束の内容はお店の過ごし方の細かな説明だったり、そういうルールに至るまでの、これまでのお店の経緯や最近のことだったり、お客さんからの要望や質問に対する一問一答だったり、それで後ろの方まで進むとようやくメニューに辿りつけたりで、これを隅々まで読むだけでも20分ぐらいは飽きがこない。阿久津氏と言葉を交わしたことはほとんどないけれど、この紙束を読んだだけで人柄がなんとなくわかる気がしたし、これほどに言葉を尽くして自分のお店を説明する、知ってもらおうとする人のことは、間違いなく信用できると思った。長年Twitterをやっていると、顔も知らないのにとてもよく知っている人というのが出来てくるが、まぁそれに近い。そして何より、この方の書く文章は温かみと誠実さがあって、飾らないのだけど非常によく考えているのが伺えて、自分の感情や思考をつぶさに捉えてはわかりやすく言葉に変換している、言ってしまえば羨ましくなるような文章だった。言葉を尽くすのに長けた人が、みんな存分に「言葉」を読んでくれと言って開いている店である。通わないわけがなかろう。だいたい月1回のペースで、頭を空っぽにして、また次の日から頑張るために、大切に大切に通うことにしている。fuzkueのある場所は飲み屋も多い商店街で、店の窓際の席に座ると、階下に向かいの中華料理屋の窓が見えるのだが、そこで酒を飲む楽しそうな人たちの顔をこっそり眺めて、うっすらと漏れ聞こえてくる商店街の笑い声や喧騒を耳に入れながら、静かな空間でコーヒーと本を楽しんでいると、なんだかとても贅沢な時間に思えてくる。

長くなったが、そんな方が本を出すという一報を聞いたときはとても驚いた。目をつけた編集者の方は慧眼にも程があるのではないか。なんだか勝手に自分ごとのように嬉しくなってしまって、先日初めて本人に「本を出されるって聞きました」と、ちょっとだけ声をかけるなどしたりした。あのときの阿久津氏の笑顔は、今年見た誰よりも嬉しそうだった。そのときに「買いにきます」と言ったので、昨夜約束を果たしてきた。

分厚い本を形容する言葉に「鈍器」という言葉があって、残念ながら?ソフトカバーの本書は鈍器にこそならなさそうだけど、机の上に堂々と縦に自立できる恐るべき分厚さを誇る。内容は1年分の文字通りの「読書の日記」なのだが、1年分の日記がモレスキンのラージ1冊で済んでしまう自分からすれば、1年書いたものがこの厚さになるというのは、なんとなく「おのれ負けるものか」という気分になる(ブロガー的な意味で)。まだパラパラとしか読んでいないが、通い慣れたカフェ周辺で繰り広げられる著者の生活と読書が、非常に高い解像度で目の前に広がるので、すごく心地が良い。一人の人間の、解像度の高い生活の記述は、それだけで文学的だ。最高なのは最後に索引がついていて、言及された書籍が全部載っていることだ。この本は最初から順番に読んでいってもいいけど、ちょっと疲れたときにパラパラと適当なところを開いてつまみ読みして、そこに書いてある本を買い物リストに入れるような、そんな読み方で楽しみたい気がしている。

個人がいくらでもその生活の記録を綴り、不特定に公開できるこの時代はとても幸福だと思う。我々はいくらでも他者のそれを物語として消費できるし、そしてその消費の過程をまた、新たな物語として紡ぐことができる。そういう循環の中にfuzkueというカフェがあり、その場所から1冊の本がまたこの世に生まれ落ちたというのは、とても喜ばしいことだと思える。本を読み、コーヒーを楽しみ、癒やしを得たり、明日への活力を得たりして、それを元に新たなものを書き、それがまた誰かに読まれ、絶えず循環は繰り返す。そして生活は続く。たぶん、そういうことだ。