時代劇というジャンルは廃れつつあるのだろうと思うし、自分もほとんど見たことがないが、結局のところ刀を使った派手な立ち回りと、筋の通ったヒーローの活躍というものは、この国では世代を越えて好まれるのだろうと思う。顔のいい男にそれほど興味があるわけでもないが、精悍な顔つき、それもどこか浮世を離れた姿をした剣士が魅せる殺陣というのは、思っていた以上に見栄えがするもので、終始飽きずに見ていられた。
刀剣乱舞は正直よく知らない。歴史改変を目論む時間遡行軍という謎の敵を阻止するため、刀剣の精霊なのか式神のようなものかは把握していないが、とにかく刀剣の擬人化である刀剣男士たちが審神者の命に基づきチャンチャンバラバラする、という骨子は知っているし、『艦これ』の流れを汲んだゲームなので内容も想像がつくが、キャラクターやこれまでのメディアミックス展開はほぼ触れていない。そういう人でも楽しめるかと言えば、話を見る分には全然問題がないし、先に書いたように殺陣がカッコいいので絵的な魅力も大きい。殺陣というか、戦う相手がスーツアクターなので感覚的には仮面ライダーに近いかもしれない。『仮面ライダーオーズ』の伊達さんこと岩永洋昭も出ているし。伊達さん、ほんと伊達さんだったので伊達さん好きは見るべき。刀剣男士の間に年齢の概念があるか知らないが、年長者として場をまとめたり若者のやんちゃを諌めたりする立ち回りがなかなかに伊達さん。
小林靖子の脚本も期待は裏切らないので、あまりネタバレには触れずに彼女らしい展開の妙を楽しんだほうがいい。惜しむらくはキャラクターの掘り下げがあまりないので、彼らの行動原理を飲み込みづらいという点だろうか。中盤の山場で或る事実が明らかになるまでは、あからさまに不審な挙動をする男士がいることもあり、少し置いてけぼりを食らう感覚はあった。特に山姥切国広、ほとんど台詞が印象にないぐらい喋ってなかった気がする。まぁ群像劇をやるには尺も短いし、スポットを当てる対象を絞り、キャラクターを描きすぎなかったのは正解だとは思う。
自分がこの映画の脚本に惹かれたのは、その土台となる「時間跳躍」「歴史改変」というSF設定をフルに活かしつつ、それがもう一つの土台である「刀剣男士」の在り方に深みを与える結果になっていた点。そのあたりを中心に、ネタバレ含みで書いていく。
信長が死んだのは本能寺ではなく安土城。それが誰にも知られていない「正しい歴史」である。これには騙された。いや、誰もが騙されていた。三日月宗近にではなく、豊臣秀吉に長いこと騙され続けてきた。これが有り得るのならば、もしかしたら本能寺の変に限らず、我々が知っている歴史が「正しい歴史」ではないということも有り得るのではないか。そういった現実を脅かす感覚を呼び起こすところが、この脚本最大の妙だと思う。現に、歴史の教科書における変更点が時に話題にもなるように、歴史は随時「書き換えられている」。正しい歴史とは何か。我々はそれを本当に知り得ているのだろうか。信長が繰り返し問うそれは、未来に住む者たち自身に突きつけられているように思える。
歴史改変の阻止、という大役を務めるのが何故刀剣なのか。あくまでゲームの都合上生まれたであろう、そんな大前提を疑ったこともなかったが、本作はそれに大きな後ろ盾を与えた。正しい歴史を知るのは、歴史の転換点たる戦をその場で見てきた刀剣たちに他ならないからだ。審神者は所詮後世の人間であり、歴史をその目で見てきたわけではない。一方の刀剣男士は人知れぬ歴史を自ら経験して知っており、彼らはそれを人知れず守り続けていく。正しい歴史とは、後世で信じられている「正史」とされる流れを守ることではなく、実際の因果を過去から未来へ繋ぎ続け、いわば世界線を守ることで、その後の未来を守ること。Fateの「抑止力」を彷彿とさせるような、因果律を外れた知られざる英雄。それが刀剣乱舞という物語の本質だったのかもしれない*1。
本作の三日月宗近の姿は、そんな刀剣男士の在り方を反映した、小林靖子らしい歪さを持ったヒーローとして描かれる。美しくはあるが、正しかったと言っていいのかは悩ましい。彼は「抑止力」として特化し過ぎていた。同じ小林靖子脚本の『仮面ライダーオーズ』における火野映司のように、誰もを助けようとするが、その対象に自らが組み入れられていない。それが審神者によって生かされるシーンは胸を熱くするが、1000年を時を経てもなお、さらに未来に至るまで、朽ちる審神者に代わって歴史を見届けてほしいという、酷な願いを託されたようにもまた見えた。この儚く危うく、それでいて力強いヒーローを演じきる鈴木拡樹という役者もまた、なんとも稀有な存在だと思う。自分をしつこいまでに「ジジイ」と呼んで自嘲する、ふわふわと捉えどころのないキャラを演じながらも、刀を握った様は凛々しく鋭い。人間の姿をしていながら人外めいた存在感があると言うのか、その生への執着の薄さも含めて、良い意味で生気を感じられない、人間らしさを持たない立ち居振る舞いだった。特に印象的だったのは、唯一感情を雄弁に語る眼の演技。一度もまばたきをしていないのではないかと思わされる青い瞳が、しばらく脳裏を離れなかった。
やはりこれはヒーローの話、ヒーローの在り方を描いた話だ、と思えるのは、自分が小林靖子という脚本家を意識しすぎている故なのだろうとは思う。しかし、彼女が描く刀剣男士像は、単なる刀剣の具象でも、単なるイケメン剣士でもなく、「人を救う」という大きな使命と業を負った存在の性というものだった。時代劇とヒーロー、双方の側面を併せ持つこの作品に、小林靖子の起用はドンピシャだったなと、改めて思います。
*1:これがゲームの設定と照らし合わせてどうなのかは知らない。あくまで本作での話。