ゆうきまさみ『機動警察パトレイバー』 - 内海という狂気と、日常への回帰

今年一番のめりこんだコンテンツが『機動警察パトレイバー』になってしまった。令和だぞわかってんのか。劇場版第1作が公開されたのが1989年。ちょうど30年前、自分が生まれた頃、平成が始まった頃のコンテンツが、この令和の始まりにおいても群を抜いて面白く楽しめるというのはとんでもないことだ。嬉しい意味で。もちろん前評判は聴いていたけれど、ページをめくる手がこんなにも止まらなくなってしまうだなんて聴いていなかった。

数多あるコンテンツの中で、今年鑑賞したのはゆうきまさみ版 = 漫画全巻と、押井監督の劇場版2作、熊耳と内海の過去を描いた小説版『香港小夜曲』(実は以前から興味はあったので、 Kindle で安くなっていたときに小説全巻の合本版を買っている)、あとは大阪で開かれていた パトレイバー30周年記念展 。劇場版は立川で先月行われた上映イベント(古川登志夫トークショー付き)にも観に行った。中でも今回は漫画版の話を書きたい。

というのも、何をおいても内海から受けたショックがでかかったからだ。自分がパトレイバーに関して得ていた前評判は「後藤隊長」に関するものが多かった。上司にしたい男ランキングで万年ナンバーワン、どうも飄々と見せてはいるが、その実頭が切れて部下を思って行動するタイプと。だから後藤さんはすごく好きなキャラクターではあったけれど、それはある種予期されていたものであって、一方で一切前評判を聴いていなかった内海というキャラクターのインパクトは計り知れなかった。一企業に務める課長という極めて平凡な立ち位置として活動していて、見た目も到底ラスボスチックではないそのへんにいそうなおっさんなのに、彼が絡む話はどれもエキセントリックな方向へ進んでいって予想がつかない。彼の行動は単に「遵法精神がない」というレベルに留まらず、人命の尊重と言った最低限の倫理すら持っていない。この漫画の基本線にある穏やかさを、文字通り卓袱台を返すようにかき乱していく様は強烈だった。

Image from Gyazo

ゆうきまさみ機動警察パトレイバー 12』小学館 1991)

漫画版の中でも比較的重いストーリーを長く続ける「13号編」が終わり、どこかしんみりとした気分でいるところに、ババンと2ページ見開きで再登場してくる内海。ラスボスの再登場という、本来ならば危機感を覚えるべきシーンなのに、このコマを見てワクワクする自分がいた。自分がというか、これはほぼ確信しているけれど、パトレイバーを読んだ人はみんなワクワクしたと思う。彼は悪役だけどカリスマなのだ。悪のカリスマではない、純粋なカリスマだ。後藤隊長が言及しているように、彼は「悪人」ではない。徳永が言及したように、彼の悪事は「手段」を実現するために用意される「目的」であったり、その自由に追求される快楽が産み落とす、単なる副作用的なものに過ぎない。

頭の固い組織上層部からの妨害や、まっとうに強い「敵」のレイバーに苦戦させられても、内海はくるくると手を変え品を変え、決して諦めずに自分の目的を達成しようと、自身の快楽を追い求めようとする。信念も曲げなければ、どんな危機的状況下でも自分のロマンを追求する。そこでは倫理観をはじめ、既存の価値観やルールはすべて置いてけぼりになる。このキャラクター造形に魅力を感じないはずがなかろう。特車二課の面々も無茶はするが、そのたびに減俸になったり謹慎を受けたりするし、結局のところ後藤隊長が責任を負うことも多く、スカッとするものではない。そして後藤が作中語ったとおり、特車二課を始め警察官の行動は常に事後的なものだ。あの手この手で常に先手を打ってくる内海の行動のほうが、縛りがなくて自由でカタルシスを覚えやすい。言ってしまえば(特に超新星編における)モンキー・D・ルフィのような気持ちよさがある。もちろん、ルフィと内海とでは、置かれている状況も行動原理もまったく異なる。でも彼らそれぞれに感じる「気持ちの良さ」というのは、実は似たところからやってきているように思う。内海はそれほどに危うい。

そしてだからこそ、彼は死ななくてはならなかった。内海は死ぬべきだったのか、という論をここで読んだのだが、自分としても物語上死ぬ必要があったと解釈している。彼が極めて魅力的なカリスマに見えるからこそ、だがそれでも現代社会において彼は裁かれるべき悪なのだ、というオチは、警察を主軸に据えるこの作品において、譲れない部分であったろうと思う。引導を渡すのが特車二課でも、ましてや警視庁ですらなく、内海を個人的に恨んでいるジェイクであるというのはなんともギリギリの選択だ。内海 vs 特車二課の構図において内海をストレートには「敗北」させず、そのカリスマ性を最後まで維持させながらも、彼がきちんと自分が成した行いの報いを得る結果になるという、本当に絶妙なシーンだ。このオチに、ゆうきまさみが内海を通じて伝えたかったことがすべて込められているような気さえする。

今のところ劇場版と漫画版を読んだだけなので、他の各作品にも共通しているかはわからないが、パトレイバーに通底するテーマは「日常の維持」にあるのだと思っている。特車二課は基本的には暇そうで、警察のお荷物で、昼日中から釣りをしていたり、その日常はまるで平和(ボケ)の象徴のように描かれる。その様は劇場版第1作において、松井刑事から「正義の味方」と評されるけれども、実際のところはそんな御大層なものだと僕は思わない。後藤が言うように、その仕事は常に手遅れで、限界がある。彼らの仕事は派手なことをすることではなくて、派手なことが起きたときに、それを元の状態へ回帰させることだ。漫画版の最後は内海こそ刺殺されるが、その他の企画七課のメンバーは逃げおおせたままで、すべてが解決した!というカタルシスがないまま、平凡な事件がまた起きて終わる。どこかモヤッとするけれども、それでいいのだと思う。巨悪を倒して終わりではなくて、終わりのない日常を作っていくことが、この物語の根幹である。シャフト・エンタープライズのように、終わりのない日常の中に悪は静かに潜んでいる。

まぁとは言いながらも、グリフォンがもう一度イングラムへ挑むように内海をそれとなく挑発していたり、ただただ「待ち」の姿勢でいるのが後藤隊長、というわけでもなくて、それがまたいいんだよなぁ、この漫画は。緻密にコツコツと行動や言動を積み重ねて、その結果として様々な事件を起こしたり、事件解決へ結びつけていったりする、どこまでも実直なストーリー展開が本当に面白かった。語りたいことがあまりに多すぎてまとまらなくて、漫画版は春頃には全部読み終えていたのだけれど、エントリーにどう書くべきか悩んでいたら年の瀬を迎えてしまった。様々なテーマで今後も書けたら面白そうだと思うが、先人がひたすらに書きつくしていそうだ、とも思う。

技術的な要素やサイバー犯罪の描き方についても大きな違和感があるものではないし、これが 30 年前に描かれていたというのは、本当にただただとんでもない。もう令和だぞ、とは思うが、令和だからこそ、終わった平成という時代がどのように始まり、どう予見されていたのか知る上で、このコンテンツの果たした意味は大きかったんじゃないだろうかと思う。