the world was not enough

物語偏愛者の詭弁と戯言

COVID-19 と生活 (3) - from the new normal

今年がもう半分終わってしまうということを受け入れづらい。新型コロナウイルスを避けて、引きこもって、引きこもり続けているうちにいつの間にか梅雨が始まり、そして夏が来そうだ。本来であれば今週末がシン・エヴァンゲリオン劇場版の公開日で、あと1か月もすればオリンピックが開催されていたというのが、どうも俄には信じがたい。時が止まったよう、というと正しくはないのだが、しかし季節が巡り、世界が進んでいく、その感覚が失われつつあるような、妙な不快感の中にいる。

状況はどうか。1か月前と比べれば、変化はあった。状況は好転していると言える。緊急事態宣言が解除され、各種休業要請や、外出、移動に対する自粛要請が緩和、あるいは解除された。日常を取り戻しつつある。そんな言葉をニュースでよく聞く。

しかして個人レベルでは、実のところそれほどの変化はない。要するところ、「新しい生活様式」というものにあまり馴染めていない。外出自粛は確かに緩和されたが、新型コロナウイルスが国内で撲滅されたわけでも、ワクチンが開発されたわけでもなく、引き続き第2波への警戒は続いている。その状態で、どの程度「元の生活」に戻っていいものなのか、ということを、ずっと測りかねている。ゼロかイチであれば簡単なのだが、グレーな判断というのは常に難しい。全面的に元の生活で良い、あるいは緊急事態宣言下のように、全面的な外出自粛であれば判断はとても簡単だった。しかし現在のような、徐々に外出もして経済を回そう、ただし感染は拡大させるなよ、というのは、少々高度なリスク判断が求められる。

この「COVID-19と生活」というエントリーを4月に始めた際、僕は以下のように書いていた。

緊急事態宣言は、実際のところそれほど強制力の強いものではないが、私権の制限をその中に含む宣言の発出を、国民が無邪気に待ち望むべきだとは、僕は考えていない。

こう書いていた自分が、宣言解除後の今になって「宣言下のほうが判断が楽でよかったな」という感想を抱いているというのは、少々恥ずかしさというか、後ろめたさのようなものがある。上から一律で命令されてしまうほうが簡単なのは、それはそうなのだ。だがここで踏ん張らなくてはならない。新型コロナウイルス流行前に比べて、一段階衛生観念に対する感度を上げて、感染症蔓延のリスクを抑えつつ、社会活動を回していく、そういう行動様式を身に着けなければならない。そのことは、わかってはいる。

ところで、New Normal という言葉がある。最初にこの言葉を聞いたときは、日本語で言う「新しい生活様式」にあたるものかと推測したが、どうも微妙に違うらしい。「新しい生活様式」は視野が比較的短期のもので、パンデミック下における感染拡大を防ぐための生活様式を指しているが、「New Normal」は長期的、あるいは半永久的に、新型コロナウイルスのみならず、様々な感染症対策にも適用可能な、新たな日常のことを指しているらしい*1。日本語圏でより耳馴染んでいる言葉を使えば、「アフターコロナ」の世界における日常を指している、と言ってよさそうだ。

New Normal という言葉が意味するのは、このパンデミックが一時的ではなく、半永久的に我々の生活を変化させてしまうということだ。リモートワークが一般化し、欧米圏におけるハグやハンドシェイクのような積極的な肉体接触文化は鳴りを潜める。そういう世の中になる、いや、そういう世の中にしていかなければならないという論調だ。実際のところ、果たしてそうなるのだろうか。

国内を見渡しても、確かにリモートワークを恒久的に定着させた企業がいくつかある。ただ、その一方で、緊急事態宣言が解除されるなり、すぐに都内通勤電車の乗車率はかなり回復してもいる。そもそも先に書いた通り、「新しい生活様式」とは一時的な措置なわけで、その先まで見据えた生活様式についての議論というものは、自分の耳にはあまり聞こえてきてはいない。そんなこの1か月を見ていると、どうも「日常」というものが持つレジリエンスは、思っていたよりも強いんじゃないかという気がしてくる。新型コロナウイルスの感染者数が減っていけば、あるいは減りきらずとも時間が経ってしまえば、存外に人々は「新しい日常」ではなく、「元の日常」に帰るんじゃなかろうか。もちろん、 New Normal へ移行する人々もいるわけだけど、それはあくまで一部の人にとっての New Normal であって、社会全体で見たときに、「ビフォアコロナ」と比べてどれほど様相が変わっているかはわからない。もしかしたら世界は、また新たな分断を手にするだけで終わってしまうのではないか、なんて、そんなことを考える。

いつになく上段に構えた話をしてしまった。そういう話をする余裕も多少は出てきたというところなのかもしれない。

さて、自分はどうなのか。相変わらず出勤はまだしていないが、来月からは週に一度出勤しよう、ということにチームで決まった。パソコンさえあれば成果が出せてしまう職種なので、出勤を再開する必要性というものが見出しづらくなった。3月にモバイル PASMO を喜び勇んでダウンロードしたのだが、どうも通勤定期としての役割を果たすことはほとんどなく終わりそうである。

外出は少しずつ解禁している。毎週末映画や美術館に行き、ほいほい外食してカフェでお茶をする、という生活にはやはりどうも戻れないのだが、隔週ぐらいでアソビに行くだとか、週に1回ぐらいは外食をするだとか、それぐらいはいいんじゃないか、と思い始めているのが現状だ。外出解禁第1弾としては、現在予約制で入館できる国立科学博物館に行った。来館人数を絞っているので、人が少ない中で落ち着いて見られそうだという期待があったのと、『あつまれ どうぶつの森』のゲーム内施設である博物館*2に当てられて、博物館欲が高まっていたというのと。館内はほとんど子供連れだな、というところだが、足が棒になるまでたっぷりと見て回れたのはよかった。当時、上野公園の施設はまだ休館、休園中のものが多く、公園自体に人は少なかった。駅ナカのみはしであんみつを食べてその日は帰宅した。

Image from Gyazo

また、人がいないディズニーリゾートという貴重なものを見るなら今のうちだ、ということで、そちらにもサッと行って写真を撮ってきた。イクスピアリには存外にパラパラと人はいるが、園内を回るディズニーリゾートラインは閑散としていて、何人かのディズニーファンと思しき人たちが、やはり今がチャンスとばかりに車内の装飾を撮影しまくっていた。自分は別にディズニーファンではなく、ただ単に「人のいない建造物」に漂う世界の終わりのような雰囲気が好きというだけなので、どちらかと言えば窓の外を多く撮っていた。試しにとディズニーシーの最寄り駅で降りようとしてみたが、改札はすべて停止していてそもそも降りるための精算ができず、駅の出入口もすべてが封鎖されており、駅から出ることすら叶わなかった。

Image from Gyazo

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