夏を迎えに行く

横須賀美術館(2017年)
横須賀美術館(2017年)

夏はあまり好きではないが、概念としての夏は好きなのがオタクだ、という話を昔どこかで見かけたが、自分の場合もそうで、あまり暑くなりきらないうちに、なんとなく夏を迎えに行く儀式みたいなことをしたくなる。安い西瓜の、上澄みの甘い部分だけを食べてあとは捨てるような、ズルい儀式。以前は毎年のように、梅雨入り直前の6月半ばぐらいに横須賀美術館へ行っていた。海と、空と、アートと、無機質だが清涼感のある建物とが相まって、これがまさに自分の描く夏の概念そのものというスポットだった。

近年は梅雨と言いながら雨が降らずに35度、とか言う日が出てくるので、迎えに行かずともいつの間にか夏になるな、という感じで、夏は冬と違って上に羽織っていたものを脱げばいいから、急にコートを引っ張り出してホコリをはたきながら着る、みたいなことは無いからいいんだけど、とはいえ夏の準備みたいなものがこっちにもあるんだよ、とは言いたくなる。簡単なところだとエアコンは掃除しないと付けられない。ハウスダストアレルギー持ちは、自ずと掃除をリマインドされることになるから便利と言えば便利な身体。いやそんなことはない。

どうにもタイミングを逸するのが、水出しコーヒー。かっこよく言えばコールドブリュー。水出しは良い。ドリップだとお湯を沸かせて、80度ぐらいまで冷ませて、その間に豆を計って挽いて、時間をかけながらドリップしていくが、水出しなら挽いた豆を突っ込んで一晩待てば数日分のコーヒーが出来上がる。

そんなに簡単なのになぜタイミングを逸するんだ、早く作れと自分でも思うが、ひとつはうちに「浄水」と言うものがないというネックがある。そのため水出しするときは湯冷ましを使っているが、これが若干面倒に思えている。あとは最近、新型コロナの5類以降以来、家にいない日も増えたというのもある。あまり長く保つものでもないから、なるべく家に連日いるタイミングで作りたい、なんて考えていたら、ずるずると今年も7月半ばまで来てしまった。

PLAID社からいただいたラテベース
PLAID社からいただいたラテベース

いい加減作ろう、と思っていた矢先、参加したIT系のイベントで、スポンサー企業からノベルティでラテベースをもらってしまった。そんなノベルティがあるのか、とびっくりしつつ、ありがたくいただいており、まだ自家製コールドブリューの夏は来そうにない。

宵山(2016年)
宵山(2016年)

夏を迎えに行く儀式、と言えば、宵山に毎年のように行っている頃もあった。新卒3年目ぐらいの夏、仕事が忙しくてとにかく何もかもが嫌になって、急に思い立ってふらっとのぞみのチケットを取って京都まで行ったことがあり、ちょうどその日が宵山だった。それが偶然だったのか意図していたのかはもう覚えていないが、あの京都の街全体が祭りの喧騒と山車の灯りに包まれる、蒸し暑くも幻想的で、日常と非日常が折り混ざったような空気に、すぐにはまりこんでしまった。森見登美彦『宵山万華鏡』がまた、あの祭りの空気をよく表していて、宵山後に読むと、帰ってきてもまだ小説のなかで祭りが続いているような、ふわふわとした心地よさがあった。これはもう汗だくになる夏まっただ中の祭りであり、迎えに行くという時期でもないが、概念としての夏、幻想の中の夏を、これほど強烈に感じられる機会もなかった。

あの空気をまた味わいたくはあるが、いくらか歳を重ねてみて、あの人混みが怖くなっている自分もいる。10年前のあの軽やかさで、また夏を迎えに行きたいような気もしている。