
ベン・ラーナー『トピーカ・スクール』が素晴らしかった。昨年の大晦日に読み始め、結構骨が折れる本で先月いっぱいまでかかったが、この時期に読めてよかった。言葉と分断と、その超克への物語。
日本ではあまり馴染みのない「ディベート」の高校生チャンピオンであるアダムを主軸にした話だが、明瞭な物語の一本筋があるわけではなく、アダムの父母であるジョナサンとジェーン、同級生のダレンという4人の人物による断片的な語りが積み上げられて成り立つような小説なので、慣れるまでに時間がかかったし、人物の名前もなかなか覚えられなかったりした。同じ人物が違う人の主観の下で、別の側面を見せながら登場する。語りは時代さえも行き来しつつ、その中で少しずつ全体像が明らかになっていき、やがて現代の分断されたアメリカへとつながっていく。
言葉が中心にある物語だった。アダムが得意とするディベートとは討論であり、そこでは主張によって相手を打ち負かすために言葉が扱われる。父母、ジョナサンとジェーンが臨床心理士であり、彼らが患者の心の治癒のために、回復のために言葉を扱うのとは対照的に。競技ディベートの戦術として、作中では「スプレッド」というものが象徴的に何度か登場するが、これは制限時間内に猛烈な早口で大量の論点をたたき込み、相手がすべての論点へ十分反論できなくなることを狙うという、およそ「対話」からは程遠いような、本当にただ相手に勝つためだけの言葉の使い方で、驚く。
なぜならそれは言語の原光景だからだ、と闇のなかからクラウスの声。集団や共同体がスピーカーに求めるのは、個人的(スピーチは表彰に値するほどオリジナルでなければならない)であると同時に、どこまでも社会的(スピーチは集団に理解できるものでなければならない)であることだ。個人の口を通じてこそ、我々は公共の言葉を聴く。あるいは、人はただ喋っているのではなく、発話における人間の限界そのものに儀式的に挑戦している。勝者になることは、その社会性の機能を回復させる詩人になること、我を忘れて言語がその内を駆け巡るような存在になることだ――グレン・グールドの演奏に合わせたハミングのように、私や息子のうなずきのように。そして敗者になることは、社会的な人間としての地位を失うことだー幼時(ラテン語のinfans、発話のない、の意に由来する)に退行し、さらに悪いことには、獣の地位に戻る。(Page 286)
一方でこの小説における、4人の物語は基本としては個人的なものだ。アダムはディベートのチャンピオンであり、ジェーンも作家として名が知られている側面があるが、それでも何か大きな権力などを持っているわけではない、ごく一般的なアメリカの家族による、言うなれば平凡な物語だ。それは過去のトラウマであったり、ちょっとしたシーンの記憶であったり、自らの罪の告白であったり、自身しか知らないような、ともすれば真実かもわからないような描写、語り、断片から成り、過剰に社会性を帯びているわけではない。ただ、スイングステートという単語や、リベラルな州で子育てするべきだったのでは、といった言葉、当然ながらディベートにおける政策討論など、政治の陰はそこここに見え隠れし、一部の語りからは、アメリカの分断の様子も見えてくる。
そういった静かな語りが、徐々に確実に社会的な側面を帯びていく。競技ディベートで、相手を打ち負かすための言葉を駆使していたアダムは、やがて異なる言葉の扱い方へと辿り着いて行く。それが帯の言葉を借りれば「あたらしい言語」にあたるものなのだろうが、それがどういった背景からなのか、過度に記述されるわけではなく、描写される一つひとつの場面を折り重ねるように見て行った末に、自ずと彼の変化を感じとるように出来ている。一見わかりにくい構成だが、読み切ると緻密としか言い様がなく、個々の語りがそれぞれどういった意味を持っていたのか、改めて最初から読み返したい気持ちにさえなった。
人の発話は、勝者になることでしか「社会性を回復」できないのか。これについては ドミニク・チェン『未来をつくる言葉』 - the world was not enough を思い出した。
そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。(Page 220)
これはディベートと正反対にあるようなコミュニケーションの在り方だ。
対立は存在するし、相互不理解も存在する。それを完全になくすことは不可能だ。そのなかで、勝った一方のみが社会性を獲得してきた、というのは、おそらく人類の歴史のほとんどの場面でそうだったのだろうけれど、人類がその先のパラダイムを本当の意味で獲得するのは、なかなか難しいらしい。対立しているのは互いの主張であり、人ではないはずだし、民主主義とはすべての人を包摂するべきものであるはずだと思うのだが、対立側を、対立側の政治家ならまだしも、その支持者などを「あの人たち」とくくって批判するような、そういった語りを目にすると、どうにも参ってしまう。個人の語りを紡いだ末に、その語りが社会性を帯びていく、というのは至極当然であり、我々は誰もが社会的な動物であって、誰もが受け容れられるべき存在であるはずだ。
それにしても、アダムはエリートに近い、しっかりした教育を受けている家庭とは言え、アメリカにおける生活と政治の近さ、民主主義や政治参加への意識の高さ、といったものも強く感じた。トピーカは実在するカンザス州の州都であり(調べたらピカチュウとコラボして「Topikachu」に改名するというイベントを何度かやっているらしい)、作中の描写からして保守層の多い街のようだが、アメリカ本国においてはこの小説タイトルを見ただけで、そういった背景まで浮かんできたりするのだろうか。恥ずかしながらアメリカのこういった側面についてはあまり理解しておらず、そういった意味でも興味深く読めた。
