傲慢さを捨てて

日記をなんだか書けなくなっている。このブログのことではなくて、プライベートの日記。書くために出来事を思い出すという行為がたぶん億劫になっているのと、いつも似たような書きっぷりになるが嫌なのだという気がしている。1日を振り返って書くから、つい書き出しを「朝、」って書きそうになって、いやそれ昨日も同じ調子で書いたなぁと思って手が止まって終わる。別に個人の日記なんてクリエイティビティも何もどうでもいいのに。文章に限らないが、何か創作するときは自分が消費者として楽しめるものを作りたいと常々思ってしまう。日記もまたそのひとつで、読み返して面白いから書いているところがある。だから読み返しても面白くなさそうだな、となると、書けない。意味のわからないスランプにはまる時期がたまにある。

それで昨年末に刊行された『季刊 日記 創刊号』を、一度は「読み切った」と判断したそれを引っ張り出して、パラパラと行きの電車でめくる。日記ってこうだったか、ああだったか、というのを眺めて、書き方を思い出してみる。結局は「考え」とか「気付き」なのだ。日常のなかで出会ったことから考えを膨らませたり、これってこうなんだ、っていう自分なりの気付きを書いたり。ピエール瀧が、溝の口で飲むのが最近お気に入りで、このあたりは賑やかだけどはみ出した輩がいない、みたいなことを書いているのとか、彼が日々のなかで考えていることに触れることができて、それで読んでいるこっちとしては瀧がそれ言うんだ、って面白くなったりするわけで。

まぁ、こういった日記本に書かれる日記は創作性に溢れているから、無味乾燥な日記がそもそもないので非常に偏っているわけではある。別にその日食べたものだけを書いたって日記は日記なわけであり、必ずしも頭の中の独り言を書きつけなくてもいい、客観的な事実だけを書いたっていい。永井荷風の『断腸亭日乗』などは、もともと公開前提ではなかったものだと思うが、それ故もあってだいぶ淡々としている。この日記ブームの最中に、文芸誌に載ったり同人誌にまとめたりする日記を、こういった淡々とした体にするのはなかなかに勇気が要るだろうけれども、個人の日記ぐらいは別に自由にやったらいいのに、勝手に自分でハードルを設けて、勝手に書けなくなっている。でも何年か後にその日の日記を読み返したときに、1文だけしかないとちょっと寂しくなったりしてしまう。未来の自分に贅沢を言うなと言って聞かせるべきなのかもしれない。

ということでここ1年半ぐらいは安定的に月2回更新していたこのブログも危うく3月は一度も更新しない形になるところで、とりあえず何かしらは上げておこうと思って23時近くになってからカタカタと打ち始めたが、書けずにいた日々を明けてブログを久しぶりに書くにあたって、その「書けない」ということ自体についてメタに書き始めるというのは、なんだかあんまり面白くないなと思っている自分がまたもや今ここにいて、それでもとりあえず書いて、上げる、ということを優先するかということで止めることなく文字は打ち続けている。本来であれば月2回、隔週というサイクルからむしろ頻度を上げて週に1回ぐらい今年は書きたいなという気持ちでいたのだけれど、3か月経ってみてどうにも上手くいっていない。生活のリズムに組み込まれていないのだ。書きたいときに書く感じで続けているので、そりゃまぁ頻繁に書くようになんてなるわけないだろと。なんでもいいから週に1回時間を決めて書くとかしてみたらいいのかもしれない。するかはわからない。面白いものを書こうなんて傲慢さを捨てて、ただただ習慣的に文字を量産するマシンになっていきたいという気持ちもまた、自分のなかにはある。

別に書きたいことがないわけではないのだ。スタバのうち4店舗にしか置いてないティラミスフォームラテを飲んだとか、最近少しずつPodcastを聴くことが増えてきて、さっきも『ぽこピーのゆめうつつ』聴きながら料理してたとか、推しがずっと全盛期みたいな感じで逆に困っている話とか、今年の花粉症はひどすぎてアイボンデビューしましたとか、日々過ごしていて書きたいと思ったことは結構ある。だから書きたくなくなったとかではなくて、単純にリズムが何か崩れてしまったんだろうという気がしている。まぁ、季節の変わり目だから、そういうこともあろう。

最近は雨がちで、桜が咲いてからも雨の日が多く、ともすればかなり肌寒くて、どうも春が来つつある実感に薄い。雨の合間を縫って、先週はリニューアルオープンした三省堂の神保町本店に行くなどした。オープン前から、売り場面積をかなり縮小したとは聞いていたが、それでも専門書の充実具合はそれなりのレベルにあって、東京堂や書泉とはまた違う色を持った新刊書店が戻ってきたのは、やはり嬉しくあった。

三省堂書店 神保町本店
三省堂書店 神保町本店