文芸ブルータスが復刊、という話題を聞き、復刊とは?……ということは、かつてブルータスの名を冠した文芸誌があったのか、と思ったのだが別にそういうわけではないらしく、通常のブルータスが「文芸ブルータス」の名で、文芸誌のように複数の短編や、長編冒頭を掲載する文学特集をやる、そういう試みが過去にもあったらしく、復刊と言えどブルータスはブルータスであって、しかしブルータスのあの判型で文芸誌というのは他になかなかなくないか、と、物珍しさと話題性で買って、読んだ。
そもそも文芸誌を買う習慣が、自分にはあまりない。というのも、文芸誌の読み方がわからない。いや勝手に好きに読めと言う話なのだが、短編も掲載されているが、連載作もいくらか載っているわけで、それらを途中から読んでも面白くはないし、何より文芸誌というものはとんでもない量の文字が書かれていて、とてもじゃないが読み切るなんてことはできず、いや雑誌というものは文芸誌に限らず完読、読破するようなものではないだろとわかってはいるのだが、それにしても文芸誌だと相当な文字を読まずに終わってしまったりするので、なんだかもったいないような気分になってしまい、どうも楽しみ方がわからない。買うのはもっぱら、気になる特集がされていたり、好きな作家が取り上げられていたりするときで、例えば寡作で知られるテッド・チャンの日本初邦訳の短編が載ったSFマガジンなどは嬉々として当時買ったのを覚えている。その後その短編はまだ単行本にはなっていないし、やはり、このSFマガジンにしても全部が全部読めたわけではなくて、そんなもったいなさもあって、もう5年以上前のものだが、いまだに本棚に差さっている。

今年に入ってからは、文藝、新潮、ブルータスと、偶然ではあるが比較的よく買っている。買ったからには読んでいるが、完読はやっぱりしていない。でも、別にそれでいいか、と何冊か買っていると割り切れるようにはなってきた。つまみ食いするように、いくらか読んで、一度本棚へ戻して、また気が向いたときにふらっと1編読んでみるとか、そんな感じの付き合い方でいいような気がしてきた。
世間的にはGOATという文芸誌が昨年創刊されて、とても売れているとも聞いた。その 創刊記念イベントの記事 をCINRAで読んだ。ここで言われている「文芸誌はフェスだ」というのがすごくしっくりくる。好きなアーティストが何組か出ているからという理由で立ち寄って、ついでに気になったアーティストをいくつか見たり、たまたま耳に入った全然気にかけたこともなかったような曲が意外と良くて引き寄せられて行ったり、それでいつのまにかファンになってしまう、というような。文芸誌もそういう楽しみ方でいいんだなと、なんだか太鼓判を押してもらったような気分になった。GOATはジャンルまで混在した文芸誌らしく、日頃SFと純文学的なものとしかほぼ読まない身としては、確かにそれは興味深く思う。
文芸ブルータスは自分にとってまさにフェスのようだった。芥川賞作家、ノーベル賞作家ら、ここ数年内に受賞した名前は聞いたことのある作家が何人も載っていて、「旬」を感じる。宇佐見りん、市川沙央、小林エリカ、ハン・ガン、誰も彼も気にはなっていたのだが、と、誰にともなく言い訳をしたくなる。好きな作家ばかりを読む偏食気味な読書生活を送り、あまり賞レースを契機に本を選んでこなかった自分には、彼・彼女ら現在一線を走る作家を一度に体験できたのは、とてもいい機会になった。
誰も避けては通れないはずの不条理な黒い穴は、普段は日常が覆っている。生活とはその穴に薄い布を丁寧に覆いかぶせる行為だ。(p.41 宇佐見りん『三十一日』)
余談だが、この判型で文芸誌というのは始め読みづらく思ったものの、紙面が大きくなった結果なのか4〜6ページ程度で収まる短編が多く、ライトな印象で気軽に読めるので、広くリーチさせるのにはありなのでは、と思うなどした。