他人の自炊を見ることは、他人の人生を覗き見ること

『ユリイカ』が「自炊特集」をすると聞いて驚いたと同時に、自炊が文芸誌に取り上げられる価値のあるテーマであることにも深く納得した。料理は掃除・洗濯と並ぶ三大家事の一つだが、掃除特集や洗濯特集はなかなかにニッチで、特集を組むまでは難しいのかもしれない。一方、料理は「作って食べる」話だけではあるのだが、単なる家事を超えて、人生の楽しみや自己表現の手段になりうる行為であり、家族・恋人と過ごした食卓の記憶や苦い思い出も呼び起こし、おいしいものばかりの世の中で健康でいられるかを試されている終わりなき試練のようでもある。自炊には人生の苦楽が詰まっていて、話題が尽きることがない。(p.105 山口祐加)

同じく、驚いた。『ユリイカ』の2025年3月号の特集は「自炊」であった。

『ユリイカ』が取り上げるテーマは多岐にわたるとは言え、あくまで「文芸」の枠には収まると思っていた。自炊は文芸なんだろうか。しかし文学的な営みだと言われると、なんとなく納得もしてしまう。まぁ細かいことはなんでもよくて、『めしにしましょう』の小林銅蟲と、エリックサウスの稲田俊輔の両氏による対談が収録されていると聞いて、それはひたすら面白そうだなと思ったのが購入の決め手になった。

「自炊」という言葉に関わるのは、ちょっと面倒だと思っている。なぜか、何かと議論の的になりやすい。どこまでが自炊だとか、どこからが自炊だとか。週にどれぐらい自炊しているかだとか*1。正直全部どうでもいいと思う。牛丼屋で買った牛皿に、家で炊いたお米と、わかめと豆腐で作った味噌汁を合わせたらそれは自炊なのかとか、キャベツをたっぷり千切りにして、カップ焼きそばに滑り込ませてからお湯を入れたら自炊なのかとか。自炊はある程度労力がかかるものだから、自分が自炊をしていてえらい!と自画自賛する分にはいいと思うけれど、他人様の食事が自炊か自炊じゃないかなんて線を引くのは、なんか烏滸がましい気がしている。家でする食事なんて、改めて考えればとてもプライベートでデリケートな類いの営みであり、十人十色に物語も事情もあるもので、そう簡単に測っていいものじゃないと思っている。

前日作ったかぼちゃの煮付けと、冷凍ご飯と、セブンイレブンの惣菜と、納豆パックの組み合わせでも、「自炊」と言い張ろう。
前日作ったかぼちゃの煮付けと、冷凍ご飯と、セブンイレブンの惣菜と、納豆パックの組み合わせでも、「自炊」と言い張ろう。

でも、それだけに、ひとが望んで語ってくれるのならば、自炊の話を聞いたり読んだりするのは好きだ。冒頭の引用のように、やはりそこには「人生の苦楽」が詰まっていて、他人の自炊を見ることは、他人の人生を覗き見ることであり、日記を読むときに感じるような「楽しみと、ちょっとばかりの後ろめたさ」がある。

自分のことについて言えば、自炊はする。適当に探したレシピに則ることが多いものの、それなりに知識はあると思うし、美味いものは作れるので自分の料理は好きだ。自炊するのが積極的に好きなほうだとも思うけれど、毎日自炊したいかと言えばそんなことは全然ない。フルタイムで仕事をした平日の夜、献立を考えるのに頭が回らないことは多い。日によっては自炊がとても面倒で、中食で済ませてしまうこともしばしばある。

「自炊ができていること」は、自分のバイオリズムを測るバロメータのように感じているところがある。自炊して、良いものを食べてバイオリズムを整えるのではなくて、自炊をする、できていること自体がバイオリズムを整えるというか。自炊ができていない日々が続いていることは、自分にとって生活や、心が乱れていることを示すに等しい。今日食べるものを、最近の体調や食事の内容から考えて、それに沿った材料を揃えて、一定の時間をとって料理をつくり、食べる。いまどきは中食でもそれなりに栄養素を摂ることはできるけれど、今日は汗をかいたから、鉄分を補給するために、冷凍のあさりを出して味噌汁に入れようとか、ゆでた青物を胡麻和えにするか、おひたしにするか、ポン酢醤油とマヨネーズで和えるかをその日の気分や体調で考えたりとか、そういう細かな気配りをしていく営みが楽しいし、心身を調えてくれる気がしている。

この4月はまったく余裕のない日々で、1週間以上外食・中食が続いたときに限界を感じた。簡単でもいいから何か作らねばと思い、ちりめん山椒と筋子を買っておにぎりにした。それからパックに入った豚汁野菜セットも買って、豚肉を炒める気力はなかったので、常温保存が可能な相模屋のきざみ揚げだけ足して簡単な味噌汁をこしらえた。それだけでも心は落ち着いた。

『ユリイカ 2025年3月号 特集=自炊』
『ユリイカ 2025年3月号 特集=自炊』

ユリイカに話を戻して。対談は期待通りに面白かった。両名ともロジカルに料理を考える人だと僕は捉えていて、常識や伝統ばかりに振り回されず、目の前の料理を如何に仕上げるかに集中しているような考え方が、読んでいて楽しい。そういった姿勢は稲田氏の『ミニマル料理』に顕著に表れていて、この本についてはユリイカのなかでも触れられているが、料理から様々な要素を削ぎ落としていったときに、どこまでその料理と呼べるのか?という追求。麻婆豆腐から片栗粉もナントカ醤も抜いたら、それはもう麻婆豆腐ではないのではという気がしてくるが、しかしそれは食べてみなければ判定できない。特に家庭料理において、この材料がなきゃこの料理はできない、なんて思わなくてよくて、もっと自由であっていいのだと思う。別の方が書いている話のなかで、リュウジお兄さんの紹介する参鶏湯には、ナツメもクコの実も餅米も使われず、それで「参鶏湯は簡単にできる」と言い張ると書かれていて笑ってしまったが、でもそういうことなんだな、と思う。なお、この参鶏湯は後日実際に作ってみたが、確かにめちゃくちゃ簡単な上に美味かった。風邪のときにチキンと野菜のスープをよく作るのだが、次からはこれにしようと思うぐらいに。


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数多の本などを引きながら「自炊」について評論するのはやはりユリイカらしいし、作家陣によるエッセイもあって、読み応えのある1冊だった。自炊しか選択肢がなかった人。自分のために食事を用意することが、必ずしも健康を志したものではなかった人。自炊を巡る物語はやっぱり多種多様で、人生の苦楽が詰まっていた。

*1:この『ユリイカ』でも、特別に自炊との関わりで売り出しているわけでもなさそうな作家陣へのアンケートコーナーがあるのだが、その中に「自炊の頻度」に関する質問があったりする。自炊をテーマにアンケートをするなら必須の質問だと思うし、頻繁にしている方も、ほぼしていない方も、ただこれだけの質問に長文で滔々と語り始める方もいて、これはこれで面白い。