その割りきれなさと出逢い直したい

新横浜駅新幹線ホームにあるStarbucksの写真
改札近くのスタバは混んでいても、こちらは空いている

滝口悠生は今年に入ってから読んでいなくて、6月に文庫で出た『長い一日』は読むのをそれはそれは楽しみにしていて、ちょうど新幹線に乗る用があったから、せっかくだからその往復で封を切ろうと思い描いていた。本なのに封を切ろう、というのは比喩ではなく、講談社文庫は文庫本としては珍しくシュリンクが成されているので、新幹線の座席に座ってリクライニングを調整し、ペットボトルを前の荷物入れのネットに突っ込んでから、固いビニールに少し苦戦したのちにパキャリと外して、それで読み始める。それほどまでに満を持して読みたい本がある、ということは幸福である。

の、だが、帰ってきた今、栞代わりにした東海道新幹線の「EXご利用票」は始まってから50ページほどのところに挟まっている。思ったほどに進まない、というより正確に言えば、途中で読むのをやめて、スマホを見たり、車窓を眺めたりしていた。別に作品が悪いわけではないし、むしろぐいぐいと読み進めたいと今でも思っている。それでもどうにも進まないという、自分でも予想していなかったアンビバレントがある。

序盤。主人公の妻が、毎日出勤するときに通りかかる近所の一軒家の外観に惹かれ、いつかあんな家に住んでみたいと思いながら日々過ごしていたところ、ある日その家が貸しに出されていることに気付き、主人公で二人で内見に行く。ところが、いざ中に入ってみると、間取りや日差しの入り方などが自分たちの思い描いていた生活には上手く重ならず、長年の憧れは実ることなく終わる。この一節を読み終えたところで、なんだか自分でもよくわからないうちに、胸がいっぱいになってしまって、そこから先がうまく読めなくなってしまった。

生まれてから今日に至るまで、僕は5回の転居を経ている。何もなければ、おそらく生涯での転居はせいぜいあと2〜3回ぐらいだろうと思っているが、すると合計しても生涯での転居というのは10回に満たない。どの街に住むか、どんな家に住むのかという選択はわくわくする一方、そこから数年、あるいは数十年単位の生活を根底から縛られることになる、生涯でもほんの数回の貴重な機会でもあるわけで、あまり得意なわけでもないと言うか、毎回かなりの緊張も強いられる。そんななかで少しでも好みの家に住みたいと考えて探し回るし、探して見つけた良さそうな家が、いざ内見に行くと写真で見たほどには窓からの眺望がよくなかったとか、駅からその家まで歩いてみると、どうにも治安が悪そうで躊躇してしまい、物件はすごく良かったのに泣く泣く諦めるとか、そういった経験も何度もしてきた。特に、同居者がその物件を好ましく思っていたのに、何らかの理由で転居を断念する、というケースはどうも堪える。別にそれは優しさとかそういう話ではなく、自身の落ち込みは自分でどうとでもするが、他人のそれは僕にはどうにもできないという至極当たり前のことへのもどかしさというか、自分以外の自分の周りの人は、誰もが幸福であってほしいという、これはこの歳になっても抱いている、僕のナイーヴな傲慢さのようなものの発露だと思っている。他人の幸福を、僕が勝手に定義して良いはずもないのに。

という、フィクションへの同情、同情なのかこれはというのもよくわからないが、自身の経験などにも重ね合わせて妙に入れ込んでしまい、読み進める手が重たくなった。だから作品のほうが悪いわけではない。むしろよい。憧れていた家が、内見を進めていくうちに少しずつ「何か違う」という感触へと変わっていくその様が、自身の記憶に刻まれた感触ときちりと重ね合うぐらいに丁寧に描写されていたが故にこうなったわけでもあって、それは滝口の小説に自分が期待していることの裏返しでもあった。これぐらいのことは別に不幸というほどのものでもないのだろうし、この先を読み進めれば、また別の良い物件が見つかるのかも知れないとも思うが、それでもその、内見がうまくいかなかった瞬間の、期待と現実が噛み合わなかったときの居心地の悪さ、割りきれなさのようなものは、その日の当人にとっては大きなものであったりするし、意外とその後の人生でも、その日のことを不意に思い出したりすることになったりもする。わかりやすい、大きな不幸や幸せばかりが物語ではなくて、如何ともしがたいこうした歯がゆさは、うまく消化したり何かに昇華したりしきれずに、もやりと抱え込むこともあるが、それをこれほどに上手く言語化して、描写できる作家がいるのだ、ということを、僕は常々嬉しく思っている。自分では言葉にできなかった、その割りきれなさと出逢い直したい。

本と言うのは「読める時期」があるもので、『ディファレンス・エンジン』は二十歳前後で読んだときは難しくて読めなかったが、三十を過ぎてからは面白く読めたし、漫画『3月のライオン』は、時にあまりに強く心に訴えてくる展開があって、多少覚悟を決めなければ読めず、島田と零の決着がついたはずの最新18巻は、昨年の9月に買ったっきり、いまだに読めずにいる。

とりあえず今は一旦趣向を変えて、日曜あたりに『反ミーム部門は存在しない』でも買いに行こうと思う。