このブログは日記ではないが日記的ではありたくて

大森 日記を書くというのは、他者の視点を内面化することから逃れる作業に近いかもなと思っていて、その人に起こったことや思ったことを書かなきゃいけないわけです。SNSが当たり前になってからよくあるのは、たとえば上司が女性蔑視的なことを言ったとき、「それは良くない」と思うより先に「これSNSで炎上しそう」と浮かんでしまう。考えてみれば変な話ですよね。

(日記屋 月日『季刊日記 創刊号』p.293 「【対談】なぜホラーと日記がブームになったのか 大森時生×山本浩貴(いぬのせなか座)」の大森の発言から引用)

他者の視点、から逃れたくてこのブログは書いているところがある。本当に逃れたいなら「読者になる」ボタンもはてなスターも撤去しろという話なので、完全に逃れようとしているわけでもないが、少なくともSNS的なbuzzや炎上からは無縁でいたいと思っているし、心持ちとしては誰が読んでいるかなどを気にせず自由に好きに書きたい。別にフォーマットが整っていなくたっていいし、確固たるテーマがなくったっていいし、本当にただ気軽に気侭に書きたいと思っている。昔はテーマをちゃんと考えて書いたりもしていた。するとご大層なテーマを思いつかない限りはブログが書けない、という状況に陥り、時期によっては数か月書けていなかったりしたのだが、なんかもうそういうの別にいいから大した内容じゃなくても、ちょっとした気付きレベルとかだらだらした日常の描写でもいいから書くか、という方向性に切り替えてから、コンスタントにエントリーを出して行けるようになった。

と言いつつ、実際のところの僕は、「他者の視点」を内面化してブログを書いている。それは別に炎上回避などの自己検閲的な話、に限ったことではなくて、今ここで書いているこの文章が、いつかこれを読む誰かにちゃんと伝わるかどうかということをそれなりに気にかけているし、逆に伝えたくないものは当然ではあるが書かずにいる。くどうれいんが書いていた「編集の眼差し」だ。誰もが読める場所に文章を書きながら、誰もの眼から逃れているような意識で書く、ということは不可能なんじゃないだろうか。体裁がブログだろうが日記だろうが関係ない。大森は、日記というのが他者の視点から逃れる作業なのだと書いているが、それは机の引き出しに閉まっている場合の話であって、昨今ブームになっているウェブやZINEの形になった日記は日付の付いたエッセイと変わらない。もちろん、他者の視点をなるべく意識せず書いている人や、意識していないように見せようと文章を紡いでいる人はいるのだろうけれど、僕はそこから完全に自由にはなれない。

だから、きっと多くの読者には馴染みがないであろうと思う事柄には説明を付けたり、読みやすさのための配慮をしてはいるのだが、実はそれを省けないかな、もっと細かいことを考えずに書けないかなという気持ちも常にあったりして、その実験のように、葛藤のようにずっと書いてきている。

同じく大森の『季刊日記』における表現を使えば、「フッテージ」を残したいのだと思う。モキュメンタリーブームによって「ファウンド・フッテージ」という言葉はだいぶ一般的になった気がするが、広く公開することを目的としていたわけではない、個人の単なる記録が、偶然発見されるような。個人が生きた、その経験の断片、という意味でのフッテージ。第三者に見られることを意識した時点で、それは記録ではなく「語る」や「説く」といった行為になってしまうが、そうではなく見る側からすれば不親切な内容でもいいから、独立して成立する文章でありたい。この文章が面白いのかどうか、理解されるのかどうか、誰かが読むのかという話から本当は逃れて、日々のスナップショットのように半ば自動的に切り取って書き残して行く、結果的にそれが、副次的に面白さを生んでくれる、のが理想である。そんなものを公開の場に書くのは矛盾した行為かもしれないが、その矛盾を楽しんでいるのかもしれない。

fuzkueの店内で机上を撮った写真。『季刊日記』という雑誌とカレーが並んでいる。
fuzkue 初台

『季刊日記』を発刊した日記屋 月日では、日記のワークショップというものを開催しているらしい。同書のなかで金川晋吾がワークショップの様子に触れており、またワークショップに実際に参加された方が書いた『日記の実験 -18,000円払って日記をつけることにした。』も今年読んだのだが、どちらでも言及されていたのが「日記に出来事が書けていない」「日記に、考えていることが書けていない」「日記の書き方がわからなくなった」というような、書き方についての悩みが参加者から見られたという話だった。

日記に何を書かねばならない、なんてことはないのだから好きに書けばいいと僕は思っているので、書き方についてこうあるべき、と悩む場合があるのだ、というのは興味深く感じる。あるいは自分の日記はもっとこうでありたい、という理想との乖離なのかもしれない。1日の出来事をくまなく残しておきたい気持ちも、思考をしっかり書きつけたい気持ちも、どちらもわかる。どちらも書くという手もある。古賀及子が「5秒のことを200字かけて書く」と表現しているが、これは自分の外で起きた出来事に対する観察、からの内面的な思考や感覚を、ほんの瞬間でもいいから切り取れば日記になる、という話でもある。同氏の『5秒日記』はとても好きだ。それでは残る86395秒がこぼれ落ちるではないかと言うことなら、1日の5秒を10回切り取ったっていいし、別にそれは1時間単位で切り取ってもいい。

このブログは日記ではないが日記的ではありたくて、日記的とはどういうことかと言えば、自分の生活に根ざしていたいということを考えている。日々の中で起きたことと、そこから感じたことや考えたことを通じて立ち上がってくる文章でありたい。テーマを最初に決めてから書いていた頃は、最近の出来事とは無関係に、地に足をつけぬまま思考をこねて書くこともあったが、今は「最近こんなことがあったな」から始まるエントリーでありたいと思っている。それは出来事の記録であってもいいし、思考の記録であってもいい。やはりこれはフッテージなのだ。あるいは、最近Martin Fowlerが書いていた「Fargments」という表現も気に入っている。断片であり、痕跡なのだと思う。

日記ブームのなかで日記をよく読み、日記についてメタ的に語った文章もよく読んだ1年だった。それに伴ってなのか、このブログも日記にしてしまえばいいのではないか、と思ったこともあるが、結局そうはしなかったし、これからも多分しない気がしている。日記にすると、1日1日の重みが等しくなるように思える。20文字しか書かない日と、1000文字書く日がきっと出てきて、いずれも等しい1日という単位のはずなのに、書けたり書けなかったりする違いはなんだろうと思う日が来そうな気がしている。書かないことを選んだ日が露になる。ブログのエントリーの形であれば、日常のどこをどう切り取った断片なのかについては常に恣意的でいられる。1日1日から向き合うことから逃げて、そういう気楽さのなかで文章を書くのが、自分には合っている気が今はしている。滝口悠生が「日付を書けば日記になる」と『文藝 2025年春季号』で書いていたが、裏を返せばこのブログと日記との違いは、日付の有無という点にしかないのでは、ぐらいの気持ちでいる。

僕だけが、僕の生活を、恣意的に、好きに切り出して、断片としてここに書き置けるのだという、その行為と自覚が、自分の人生を好きに生きているのだという感覚を、どこかで支えてくれている気がしている。

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おまけとして、今年読んだり買ったりした日記本や日記関連の本をリストにしておく。

  • 雑誌『文藝 2025年春季号』河出書房新社 ※特集1が「日記 記憶と記録」
  • 雑誌『季刊日記 準備号』日記屋 月日
  • 雑誌『季刊日記 創刊号』日記屋 月日
  • 滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』NUMABOOKS
  • 古賀及子『私は私に私が日記をつけていることを秘密にしている』晶文社
  • 日向野桜『日記の実験 -18,000円払って日記をつけることにした。-』※ZINE
  • 丹渡実夢「迂闊 in progress 『プルーストを読む生活』を読む生活」本屋lighthouse
  • 柿内正午『プルーストを読む生活』エイチアンドエスカンパニー