「世界の終わりのものがたり」を見てきた

一瞬「えっ?」と聞き返したくなるようなタイトルの企画展が、日本科学未来館で開かれていたので行ってきた。言わずもがな、東日本大震災の影響を受けた企画展です。「終わり」を踏まえた上でどう生きていくか。その視点から73の問いが投げかけられる、という構成。以下、だらだら感じたこととか。

しかしこういった真剣な企画を茶化してはならないとは思うんですが、世界の終わりと聞くとサブカル的な連想をどーしてもしてしまいまして。僕の中で一番に連想されるのは西尾維新戯言シリーズ。明確に世界の終末を描く作品ではないけれども、「世界の終わりを見てみたい」とする人物を中心に据えて終幕へと動く物語ではある。僕にとってアレは明確な「終わり」の形の一つであって、因果律から弾き出された彼はきっとその時点で「終わって」いたんだろうな、などとそんなことを思うのですが。

閑話休題、そもそも「世界の終わり」って何なんだろうねと言えば、僕は「自分の意識の終わり」としかイメージができないのです。僕が死んだあとにもきっと世界は続いていくし、仮に意識が途切れても肉体は生きているなんて状況もあるかもしれない。でも僕が自ら意識して周囲の物事を感知できなくなり、こうして文章を残すこともできなくなったら、それは僕という物語の終焉です。その後に続く家族や地球の物語なんてエピローグにすらなりゃしない。この意識がプツリと立ち消え、この視点から世界を解釈し、物語として頭にインプットすることができなくなったのならば、それ以降にはじまりなんてものはないのですよ。まあ、この辺は宗教観とかにもよるんでしょうね。

しかし昨年の3月11日よりこちら、無意識のうちにこの国を揺蕩っている「世界の終わり」の形は、もっと具体的で広域的なものである気がします。それは一方では人の手によりもたらされる終わりですけど、また一面には人智を超えた力でもたらされる終わりでもある。むしろ言ってしまえば、人智を超えた力を人間の手でどうにかしようとしたが為に起きる終わりなのかもしれない。以前どっかで読んだんですけど、科学の進歩に伴って正しくリスクを測ることができないレベルの技術を人間が扱うようになってきている、と。確かにそんな気はします。スペースシャトルの事故とか見ててもそうですが。でもその一方でやはり、科学技術による恩恵を捨ててしまうのか、という問いが出てくる。簡単に言ってしまえばこの1年間、この2択がずっと多くの人を悩ませているわけで。

結局はリスクをどれだけ許容して生きて行くのかという、個々人の価値観でしかないのだと思います。福島第一原発から離れるのに飛行機を使うことで結局被曝しているなんていうネタもありましたけど、リスクなんて目に見えないものだし、自分が常日頃どれだけ「終わり」に近付いているかなんて本当は誰も意識していないと思うのですよ。今回はそれが、たまたま大きな形で目に見えるようになったから、みんなが騒ぎ出しただけの話。だから、言ってしまえば滑稽な話だとも思うのです。何十年とそこにあったリスクに、今さら向きあうのかと。じゃあ他のリスクは置いてけぼりでもよいのか、と。車に乗る、ジャンクフードを食べる、本を大量に買って棚の上に積む、料理をする。極論、それら全てが「リスク」をはらんでいるのであり、我々は常に終わりと背中合わせの世界を生きているんじゃないのかと。

そういった意味で、今回の企画展は非常に示唆に富んでいたように思います。そもそも自分にとっての終わりとは何か。リスクとどう向き合うのか。持続するとはどういうことか。それが本当に好ましいことなのか。終わりの後に何が残るのか。そういったことを一つ一つ問うていく構成が丁寧で好感が持てます。私たちは普段、科学に「答え」を求めがちだけど、その科学から「問い」を突きつけられるという構造は、なんだか新鮮なものがありました。

そういえば地震と同時期に流行していた『魔法少女まどか☆マギカ』も、最終的には無数の「終わり」とどう向き合うかという物語でしたね。あと3年ぐらいは、あの作品に囚われ続けていかなくてはならないんじゃないかなぁと、そんなことを考える今日この頃。

ちなみにネタバレになりますが、この企画展最後のメッセージがとても良かった↓