お盆の連休中、いくつかの鉄道路線に乗ったが、南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)に触れた告知を出しているのは相鉄線だけだった。もっと西のほうへ行けば、事情はまた違ったりするのだろうか。
日常が緊張感をはらんだ風景は撮りためたくなる。同じことをコロナ禍の折にもやっていた。街中にあふれる感染症予防を呼びかける掲示、営業時間短縮のお知らせ、イベント中止の告知などなど、見かけるたびに撮る。今しかない、今しか撮れない、あの日あのとき、確かにそういう時代があったのだということを明確に知らせる写真。そんな非日常はお呼びではないし、嬉々として撮るのも違うとは思うが、記録はしておきたい。非日常があったからこそ、浮かび上がってくる日常の尊さ、みたいなものはある。
今の状況はコロナ禍にも似ている。生命を脅かしうる危険性と、それに対する備えの周知がある一方で、それでも日常を送りましょう、という、半ば相反するようなメッセージ。STAY HOMEさえしていれば、感染可能性を限りなく下げられたコロナ禍より、どこにいようが1秒先には地震が起きるかもしれない、今の状況のほうが厄介だ。このまま行けば今日中に警戒が解かれるそうだが、その1秒後に地震が来ることだって当然ある。「1週間」という警戒期間は、別に科学的根拠に基づくものではなくて、社会的受任が可能な期間なのだそうだ。それはそうなるよな、という気はする。
コロナ禍の「日常」を書き綴った作品群、というのもいくつか出ているが、今日マチ子の『From Tokyo』をはじめとした3冊のシリーズが好きだ。1日1枚のカラーイラストで描かれた3年間。当然ながらコロナ禍とはあまり関係のないことが描かれた日もたくさんある。中銀カプセルタワービルの解体など、そのときの時事にも触れられていて、あの3年間は確かに「コロナの時代」ではあったが、それ以外の出来事だってまだらにたくさんあったのだと、改めて思い知らされる。