アンノウン・マザーグースと、ワイドスクリーンバロックと。

『アンノウン・マザーグース』はイントロがない曲だが、だからと言ってライブで突然曲が始まる、ということはなくて「wowakaより愛を込めて!」という口上から始まるのがお決まりになっていて、だからこの動画においても、その口上がないと物足りないなと思いながら見始めたらちゃんと叫んでくれて、なんというか、こういう場だからと綺麗に飾り立てることのない、荒々しいヒトリエの演奏がただただそのままそこにあって、高速詠唱に口が回らないこともあるのもわりといつものことで、まぁそれはwowakaもそうだったわけで。なんかすごくFIRST TAKE。THE FIRST TAKEで見たかったのってこういう演奏だったんだな、と再認識するような動画だった。明るい背景でヒトリエを見るのがとても新鮮だな、と思ったが、今年は日比谷の野音でやるらしいから明るいヒトリエがまた見られるかもしれない。野音、中に入ったことがないんだよな。

Image from Gyazo

最近『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という本が流行っているそうで、今月前半、本が読めねぇなと思いながら過ごしていたところで発売されたのでこれは俺のことか、と思いながら、まだ書店で見かけてもいないので、この本の内容はまだ知らず、故にここからは自分の「本の読めなさ」の話になるわけだが、働いていると本が読めない、と言われるとそんな気もするし、そうではない気もしてくる。逆に働いているから本が読めている頃もあった、というのは通勤時間のことであり、短い頃は5分しか電車に乗っていなかったが片道30分以上乗って通勤していた時期が長くて、だいたいその時間が読書時間に割り当てられる。リモートワークがメインになり、この時間を失った人は多々いると思うが果たしてそれによって書籍の売り上げなどに影響はあったんだろうか。ないか。

その後からだったのか、通勤が存在していた当時からそういう習慣だったのかはもう自分で忘れてしまったが、今は就寝前の30分間を読書の時間に充てている。全部終わらせて布団に潜って、紙の本か BOOX Palma で電子書籍を読んでいる。が、読めないというか、読む気にならない時期というのは確かにある。思考を整理するのが苦手だ。ぐるぐる余計なことを考えてまとまらなくなることがよくある。だから瞬発的に当意即妙な会話をするとか議論とかもあんまり得意ではなくて、ブログを書いているのもその延長だったりするが、その話は今はいいか。仕事はまぁ、考えることが多いから「ぐるぐる」の契機になりやすい。風呂というのが厄介で、強制的にデジタルデトックス状態になるあの時間で、妙な考えがふわふわと浮かびやすい。そのまま夜半を迎え、頭の中が整理できていないまま布団に潜ると、本に集中するのではなく、頭の中のぐるぐるを処理するために、スマホで検索を始めたり、Kindleから関連しそうな本を引っ張ってきて読み返したり、という無為な作業をしてしまう。

一方で、そういうときであっても本をガッツリ読んでいる場合はある。件の新書の煽りで、「じゃあ本を読むか」となった先週1週間はずっとチャールズ・Ⅼ・ハーネス『パラドックス・メン』を読んでいた。一度読み始めると続くのだ。つまらなくない限りは。つまらなくない限りは、というのが曲者ではあって、『パラドックス・メン』に関しては買ったのは2年前だから、最初から「読みたくてたまらない」という本だったわけではない。SFは好きだが古典SFはちょっとだけ読み始めるまでにハードルがある。でも読み始めると面白い、ということは多々ある。この本はまさにその類いで、一度読み始めたら1週間止まらなくなった。

要は「モードを如何に切り替えられるか」という話なのだと思っている。読書はそれなりの集中を要する娯楽だ。何かに気を取られてモードをうまく切り替えられないと本は読めなくなる。読みたくてたまらない、という気持ちは、ぐるぐるした思考なんてものを簡単に取り払って集中へと導いてくれることがある。だから読みたい本、きっと面白いだろうという本を何冊か脳の裏側にピットインさせておけば、自ずと手に取るようにはなる。わりと。マンガは読み始めるハードルも低いし、面白さもわかりやすいから、ピットインしやすいというのはすごくある。この手の話でよく引き合いに出されるのが、某映画の「息抜きにならないんだよ。頭入らないんだよ。パズドラしかやる気しないの」という台詞で、僕はこの映画を見ていなくて『邦キチ!映子さん』を通じて間接的にしか知らないのだが、ここで「息抜きにならない」とされているのは『ゴールデンカムイ』とか『宝石の国』らしい。いずれもこれまた齧る程度しか読んでいないものの、ベクトルは違えどハードな作風なのは知っているので、それ故に息抜きにならないという話なのだろう、という気はするが、僕にはそれはない。なくはないか。わりと現実的な人間関係のギスギスなどの作品はそもそもが苦手なので息抜きにならないしあまり読まない、というのはあったりするが、バタバタ人が死ぬ、ぐらいの展開なら平気で読めたりしてしまうのは耐性の問題、というような気もする。そもそも読書やマンガが息抜きなのかもわからない。息を抜くために読んでいるというよりは、息をするために読んでいる感じがする。

閑話休題。時期によっては1冊もピットインしていなかったりもする。積んでいる本はあるが、どれもなんとなく読むのに腰が重い、というときはもう環境を変えるしかなくて、 fuzkue に行ったりする。自分にとってのfuzkueは、時には気に入った本を誰にも邪魔されず心ゆくまで堪能するための場でもあり、時には強制的な読書モードへと自分を切り替えるための場でもある。そういえば最近は「如何にして本を読むか」ブームなのか、オモコロでも似たような話が挙がっていて、よもやfuzkueにも言及があるとは思わず不意打ちに驚くなどもした。

omocoro.jp

それで『パラドックス・メン』。『カエアンの聖衣』や『虎よ、虎よ!』が好きなのだから、ワイドスクリーンバロックの原点とされる本書も自分に合うだろう、と思ったが見事にハマってくれた。荒唐無稽で大言壮語、だけど辻褄が合っている気がしてくるこの不思議な感覚。カミナ(天元突破グレンラガン)の「無理を通して道理を蹴っ飛ばす」って言葉が一番ワイドスクリーンバロックというジャンルを端的に示しているんじゃないだろうか。出自のわからない謎の〈盗賊〉の正体はいったい誰なのか?という非常にシンプルな筋が、最後には大風呂敷を広げて畳んで綺麗に終えていく、この過程がこのジャンルなのだなと理解した。しかし1953年に書かれ、竹書房文庫からは2019年に出た本書、再訳かと思ったら初訳だったというからちょっと驚く。

日本だと中島かずきや『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』で言及されたことにより、知名度の高いジャンルになっている気がする。まぁ、本書の刊行は『劇ス』よりは前のことだが。自分の場合もまさにで、グレンラガンやキルラキル→たまたま『ゴッド・ガン』を読んでベイリーにハマる→ベイリーの他作品を探していたら、キルラキルのインスパイア元と知って『カエアンの聖衣』を読む→『虎よ、虎よ!』を読む→前情報なく『劇ス』を見ていたら、急にワイ(ル)ドスクリーンバロックになる、という具合だった。