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そのねこがうたうとき

物語偏愛者の詭弁と戯言

エムオーティー・オン・ゴーイング

サブカル

MOT、東京都現代美術館が来週5月30日から休館に入るということで、しばしの別れを告げに行ってきた。

清澄白河といえば商店はそれなりに立ち並んでいるものの、人通りはそこまで多いわけではなく、MOT周辺にちらほらいるぐらいのイメージが自分の中ではあるのだが、ブルーボトルコーヒーの開業以来、徐々に「オシャレな下町」としてのイメージを強くしているように思う。特にこの日はMOTでもピクサー展が開催、街中でも「深川美楽市」というイベントが行われていて、深川めしの店にも行列ができるほど多くの人で賑わっていた。そうか清澄白河はデートにつかっても良い街だったのかと認識を改める。

ちなみにピクサー展は昨日14時に来館した時点で120分待ち。さすがにあの炎天下を男1人で並ぶ意味も見出だせなかったので、並行で開催されている『MOTアニュアル2016 キセイノセイキ』と常設展『コレクション・オン・ゴーイング』だけ見てきた。

キセイノセイキ。昨今アート周りを巡る「規制」が話題になることは多く、思えばMOTも昨年やらかしたよなぁと思いながら。これは休館を前にした最後の自己批判なのか、問題提起なのか。しかしチャレンジングな展示であったのは確か。規制するのは誰か。規制されるのは誰か。「規制」の実情を展示するということは、結局のところvoidになってしまうのかもしれない。自分の中では、前回ヨコハマトリエンナーレで掲げられていた「世界の中心には忘却の海がある」というフレーズがいまだに強く残っていて、それと似たものを今回の展示に対しても抱いた。

結局のところアートの目指すところは「見えないもの」の可視化、特にコンテンポラリーアートにおいてはそれが大きな意味を持つと個人的には思う。自主規制という名の内面化された検閲。「見ない」「行かない」という消極的な選択によって為される自己への規制。正直、中にはあまり正面から見たくはない類の展示もあった。だがそれを「見ない」ことを決めるのは誰か。見るべきではないと力を振るうのは誰か。あるいは、見えないものを見るために、我々はなにができるのか。ただ不満を並べるだけで、虚空に向けてdisを放つだけで意味はあるのか。少なくとも、今回並んだ作品群はその解の一つではないのか。

常設展は一転して穏やかというか、アンディ・ウォーホルのようなMOTを代表とする所蔵作品が一挙に見られて満足感が高い。着目すべきは順路としては最後に見ることになる展示が、宮島達男氏の『それは変化しつづける それはあらゆるものと関係を結ぶ それは永遠に続く』だったことだろうか。コレクション・オン・ゴーイング。キセイノセイキと合わせて、休館に向けたダイレクトなMOTからのメッセージに見えてくる。自分がこの作品と相対するのは2年前の『クロニクル 1995』以来2度目で、好きな作品だっただけに、最後に見られたのは嬉しかった。

休館は2018年度中の完了を予定しているということで、長くて3年近くはこの美術館に来られないことになる。都内では最も足繁く通った場所の1つだっただけになんとも残念だが、長くこの場所が続いてもらうためにも楽しみに待ちたい。

ちなみに余談だが、ミュージアムショップでカタログのバックナンバー、洋書、CDの在庫が一部半額で売られていた。これが今回一番の目玉かもしれないなとも思ったり。