そのねこがうたうとき

物語偏愛者の詭弁と戯言

『リトルウィッチアカデミア』憧れとの決別

リトルウィッチアカデミア』を最終回まで見ました。


TVアニメ『リトルウィッチアカデミア』第25話「言の葉の樹」予告

率直に言うと最も印象的だったのは、最終回というよりその1つ前の第24話『アルクトゥルスの森』でした。2013年のアニメミライ版から、ずっとシャリオに憧れているとうるさいぐらいに言い続けてきたアッコが、自分の口で「先生、私わかってるの。私はシャリオにはなれないって」という台詞を吐いたのが、一瞬頭が真っ白になるぐらいに衝撃的だったのです。もちろん、ストーリー上その台詞はネガティブなものではないんですがね。でも、その内心がどうであれ、何の躊躇も打算もなく夢と憧れを振りまいてきた彼女が、自分はシャリオではないという現実をまっすぐに語り、その上で改めて、魔法が自分にとって好きなものであり、自分なりに魔女になりたいという希望を持つというのは、アニメミライ版でも映画版でも届かなかった、このTV版を通して初めて辿り着けたアッコの成長だったと思うんです。以前はどこかしらでシャリオ=アーシュラ先生の手を借りて立ち直り、危機を切り抜けてきた彼女が、ここだけは友人の手を借りて立ち直るのです。

ある種憧れとの決別を迎えることは、GAINAXから続く伝統的な「幼年期の終わり」の描き方なのかもしれません。言わずと知れた『天元突破グレンラガン』第9話の「アニキは死んだ。もういない」というシモンの口上と、カミナが信じてくれた自分ではなく、自分が信じる自分を信じるという心境の変化(この下りは映画版だと前編のラストに当てはまりますが、前編の英題はまさに『Childhood’s End』です)。あるいは『トップをねらえ!2』でノノリリに憧れ、バスターマシンを持つことを望み続けてきたノノが、ノノリリは自らの心の中にバスターマシンを持っているのだと啖呵を切るシーン。「憧れ」という自分の外にあるものへの同一視からすべては始まるのかもしれないけれど、その人自身にはどう足掻いたって成れはしないのだから、自分がどう生きていくかを探るしかない。それを認められたとき、人は初めて幼年期を終えるのかもしれないなと。

テレビアニメ版については前半クールはこれまでの延長で、そこから先が未知の域だったように感じています。ずっと溜め込まれていたシャリオを巡る伏線が明かされたのもそうですが、アマンダやコンスタンツェというこれまでペアを組むことはなかったキャラクターにもスポットが当たったこと。そして物語の最後はロッテでもスーシィでもシャリオでもなく、ついにダイアナと並び立つことができたこと。最終回、ロッテとスーシィと別れてからの一連の流れは、どこか寂しくもあったけれど、でもずっと待ち望んでいたシークエンスでもあって、まぁ賭け値なしに泣けましたね。ほんとに。

だから、ここはまだスタート地点なんですよ。ずっと「落ちこぼれの起死回生」で続けてきたカタルシスから、みんなと手を取り合って、肩を並べて成し遂げる地に足を着いた成長へと、ようやく歩み始めたのがこの最終回だったから。だから続きもまだ見たいし、TRIGGERがこのコンテンツを手放す日が来るなんてありえないと自分は思っちゃうんだが、どうですかねぇ。まぁ自分にできるのは、Blu-rayを買い溜めて座して待つのみです。いいアニメでした。