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そのねこがうたうとき

物語偏愛者の詭弁と戯言

自らが生きる「物語」への自覚

オタクの社会性

エピソード、ストーリー、物語は、直接的な消費物である、音楽・映像・文章・演技・競技からすれば添え物であるものの、それがあるからこそ、消費物が魅力的に感じることはあります。

消費されているのは"ストーリー"? - 斗比主閲子の姑日記

※全部書いてから気付いたけど、今回の騒動に関係ありそうでまったく関係ない感じのエントリーに仕上がってます。

作曲者が誰であろうと、全聾者が作っていようがなかろうが、音楽の価値そのものに変化はない、と言い切りたいところなんだけど、どうもそう気持ち良くはいかないのが世の常で、なんとなく「騙されていた」とかそういう思いが残ってしまう。脈絡とか相対性とかそういう言葉を考えてもみたけど、この手の話を考えるときはやっぱり「物語」という言葉がしっくりくる。対象物単体ではなく、その背景にあるエピソードやら社会状況も含めた評価が下される。人は「物語」に価値を見出す。

それが悪いこととは思わない。というより、一切の物語を配した芸術なんてものの方が稀有なわけで、どんなものであれ生み出された背景というものは存在している。もちろん、程度の問題はある。過度に自らの「物語」を売り込む態度は「売名」とも呼ばれてしまうわけだし、物語「だけ」が意味を持って強化されるような場合、それは宗教に近いものと成り果てていく。

たまにメタファーとして言われる通り、アイドルなんてのは特に宗教チックなわけであって。偶像を演じる人間と、演じられた偶像に対する崇拝をもって生きがいとするファンという構造。だからアイドルのスキャンダルは、偶像のメッキを剥がすものとして非難される(そいえば去年のリーガルハイであったね。そういう裁判)。人間なんだから、恋愛だってするだろうにね。もちろん「宗教」化した物語は悪い面だけ持っているのではないと思うし、それにより「救い」を得ている人もいる。でも時としてその姿は、外部からは「異様」な存在に見えたりもする。

物語と共に生きるのは良い。だが狂信は恐ろしい。無自覚な信仰が最もこわい。

誰もが何らかの物語を生きているのだと思う。特に自分みたいな人種は物語と無関係ではいられない。VOCALOIDとアニメとインターネットが作り出す「大きな物語」の網の目の中で自分は生きている。VOCALOIDは「物語」として消費されているだけで、技術的価値や、楽曲自体の価値は大したことがないんじゃないかなんていう議論は、もう幾度となく繰り返された。それに対して自分は楽曲だけを見ているんだと言う人もいるが、その人だって「物語を否定して、本質を嗜む」自分という物語を生きている。逆説的な言い方にはなるが。物語なんてのは確かに実態がない、虚像かもしれない。でも物語性のない人生なんて、それこそ虚像だ。

特にSNSの隆盛と、それから少ししてやってきた大震災のあと、「物語」の数は爆発的に増えたような肌感覚を覚える。デマが広がっては瞬く間に否定されるような事象が多かったり、「絆」や「取り戻す」などという曖昧なイデオロギーが跋扈したり。あまりに強大で恐ろしい物語がやってきてしまった故に、それを乗り越えるための物語が無数に求められ、応答として無数の物語が真偽を問わず溢れている。SNSは、無数の物語をこれまで成し得なかったスピードで世界に広げていく。

自分がその中で、どの物語を選びとって生きているのかは自覚すべきだ。自分が生きる物語だけが、世界のすべてと思うと危険だ。世界に物語は無数にあって、たまたまそのうちの一つを選びとってしまっただけで、選ばれた物語には意味なんてきっとない。今、あの騒動を巡っては「物語が崩壊した途端に一斉に叩きまくるって、結局耳が肥えてなかっただけだよねプゲラ」という声が聞こえてくる。それに乗ることも構わないけど、それだって一つの物語に過ぎない。

舞城が言っていた通り、物語とは祈りなのだ。物語を好むというのは、そこに自らの人生を託す行為なのだ。自分にとっての「神」が誰であるかということぐらい、特にオタクは知ってた方がいい。