『ニンジャ・バットマン』と『天の光はすべて星』から見る中島かずき


『ニンジャバットマン』本編冒頭映像

特に意識していなかったのだけど、中島かずきフィーバーがなんとなく自分の中で起きている。日曜に中島が脚本を書いている映画『ニンジャ・バットマン』を見て、月曜には中島が解説を寄せているフレデリック・ブラウン『天の光はすべて星』の新訳版を読み終えた。少し遡り、今年の春先には、同じく解説を寄せているバリントン・J・ベイリー『カエアンの聖衣』を読んでいたりもして、なんだか続いている。

中島作品に初めて出会ったのはおそらくアニメ版『大江戸ロケット』なのだが、当時は深夜アニメを見るようになったかならないかぐらいの頃で、正直あまり記憶がない。彼の脚本イメージがガッツリと心の奥底に燃える火となって刻まれたのはやはり『天元突破グレンラガン』で、それ以来細々とではあるがファンを自認している。『グレンラガン』作中の「無理を通して道理を蹴っ飛ばす!」という台詞は、中島かずきの脚本世界そのものを表す見事な言葉だと思う。とにかく熱くて訳が分からなくて、やりすぎな設定をとことんにまでやりすぎて突き抜ける。『カエアンの聖衣』の解説で、中島は「こういうワイドスクリーンバロックがやりたくて『キルラキル』をやった」と書いているが、彼の他の作品にしたって、奇抜な世界観が大真面目に最後まで大風呂敷を広げる爽快感がある。

自分は特にアメコミが好きでも、もちろんDCのファンというわけでもなく、『ニンジャ・バットマン』はシンプルに中島脚本だから、そして神風動画が関わっているから見た。バットマンヴィランズが戦国時代の日本にタイムスリップして、戦国大名たちと立場を入れ替えて繰り広げる大立ち回りを、中島かずきと神風動画で作ると聴いたら「なにそれ面白そう」となるアニメファンは多いと思う。

彼らがやろうとしたのは、バットマンの舞台を日本にする、しかも海外からのステレオタイプ的日本により近い、戦国時代の日本にすることで、徹底的に「世界よ、これがバットマン in ジャパニメーションだ(古い)」をやりきることだったんだろうなと。戦国大名と化したヴィランの紹介シーンでは、個々のヴィランを模した派手な「ねぷた」が登場したり、バットマンジョーカーの最終決戦は日本刀による一騎討ちだったり、迫力とケレン味のある3Dが持ち味の神風動画が、意表を突くかのように日本画的な柔い線のシーンを挟んできたり、とにかく遊び心に溢れていて飽きさせない。ねぷたについては探したら公式で動画上がってたので貼ってみる。これ最高。


『ニンジャバットマン』本編映像(悪党紹介部分)特別公開 【6月15日公開】

時代考証や物理的な制約を一切無視して、巨大ロボをぶち込んできたのも日本的要素と言えば日本的要素だったんだろうか。『メカサムライエンパイア』も顔負けの、「メカニンジャフジヤマ」なクライマックスだった。よもや最後に宇宙へ行くんじゃなかろうかとハラハラしたが、さすがにそれはなくてガッカリしたような、安堵したような。惜しむらくは戦国大名と入れ替わったヴィラン、という設定にも関わらず、特にそれぞれの大名の特徴がストーリーには反映されなかったあたりだが、そもそも海外への公開を前提とした作品であることを考えると、武田信玄伊達政宗をクローズアップしたところで意味はないのだろう。

『天の光はすべて星』は、読み終えたときの感想が「実質グレンラガンじゃねーか」の一言に集約された。いや、冷静に考えると全然違うのだが、天を目指して1人突っ走った男の一代記(ただし晩年の数年間のみ描写)というのは同じだし、なんというか、心意気が似ているなと。解説で中島自身が書いている通り、「自らの夢を次の世代へ託しつつ、宇宙へ飛び立つ者たちを見守る」というラストシーンはグレンラガンのそれと同じ構図であり、人生半ばにしての伴侶の喪失(喪失した存在が、自分のなかで一つとなって生き続ける!というのもシモンっぽい)、仲間に恵まれながらも、ときにその存在を顧みず一人で突っ走ってしまう無謀さなど、カミナとシモンに重ねられる部分は少なくない。

物語終盤で、老いた「宇宙飛行士」はいよいよ夢を前に敗れ去る。一時は廃人寸前にまで陥るものの、それで話が終わらないのが面白い。それまで間違いなく「自分の願望」であった宇宙への挑戦は、その後人類全体のそれへと視点を移し、そしてさらには宇宙に憧れる小さな甥を通して、未来へと展望を開いていく。このダイナミズムが熱い。ひとりの人間の夢と願いが、より大きな夢へと成り代わる。

人間はきっと星に行き着くだろう、これからの一千年の間に。考えてもみろ、たったいま終わった一千年のはじめに、人間がどんな状態にあったかを。剣と槍と弓と矢を持って、原始的な格闘をくりひろげていたのじゃないか。それがその千年の終わる前に、地球をはなれて一番近くの惑星に行き着いたのだ。今からの千年が終わるとき、人間はどの辺まで行っているだろうか? むろんおまえは、それを自分の目で見とどけることはできない。しかしおまえはその一部なのだ。なぜなら、おまえもまた人類の一員なのだから。そしておまえはその手伝いをすることができる。命のある限り、ロケットと人類を星にむかって押し進める手伝いをすることができるのだ。自分でロケットに乗るかわりに。 (p.283)

中島の物語は、とにかくがむしゃらにひたすらに、前へ進むためのものだから好きだ。派手でメチャクチャでいても、主人公が何かを目指し、つまずきながらも確実に前進することを肯定してくれて、そして人類全体が前へと進んでいくのが好きだ。『ニンジャ・バットマン』におけるバットマンも、一度はおなじみのバットモービルなどを駆使するもジョーカーに敗れ、それでもなお、日本的な装備と忍者を仲間として別の戦い方で再度挑んでいく。それは単なる不屈ではなく、手を変え品を変えて、変化し進化することで前へ進む物語だ。ただ諦めないだけなら猿でもできるかもしれない。だが人間は、そこまで愚かではなく、昨日を糧にして明日へと進んでいく。

人と獣の二つの道が、捻じって交わる螺旋道!! 昨日の敵で運命を砕く!明日の道をこの手で掴む!! 宿命合体!グレンラガン!! オレを誰だと思ってやがる!!!!