『虐殺器官』再読〜地獄はここにある

今年映画公開ということと、自分の中でもう一度ちゃんと咀嚼しておきたいなという思いとで、再読した。ブクログによれば3年ほど前に読んでいたらしい。

元々インパクトのある表紙で目についていたのだが、伊藤計劃という作家を知っていたわけではなかった。読了して時間を経過し、伊藤計劃のファンになり、その評判も自覚した今ではあるが、それでも彼の作品がそれほど優れているとは思えない。というか、物語としてはFPS的なクローズドな世界観であり、あまりに単調で退屈だなぁと思ってしまうのだが、何より彼の作品から漂う、ケレン味溢れた土臭い雰囲気と、言語や意識を中心としたその発想、世界観が好きなのだ。

初見時は、実際に読んでみると、自分はもともと大学で社会言語学を専攻していたということもあったり、エンジニアとして様々な事象、現象、行為の言語化=コード化、ミームとしての捉え方なんかにも興味があるので、そういう意味でこの作品はガッチリと自分の脳にマッチした覚えがある。3年前に読んだときは「虐殺の文法」というアイディア自体のインパクトが強く、それ一本でずっと興奮が頭に残っていた節もあったのだが、改めて読み返すと幾重にも現実社会におけるテーマを織り込んだ、エンターテイメントだったんだなと気付く。純粋な伊藤の作品としては、自分は『ハーモニー』よりこちらが好きだ。

言語とは何か

作中における言語とは、意識と密接な関係を持つ重要なタームである一方、ありがちな「人は言語によって現実認識をしている」という説は明確に否定されている。エスキモーは雪を表す単語を20種類持つから雪に対する意識が違う、みたいな話は正しくはないのだと。様々に分化した言語も、すべては共通する「深層文法」を持っているのであって、それは人間が進化の過程で獲得し、生得的に有している器官であるという。

故に「虐殺の文法」はすべての人類に対して共通して有効化される。表層の音や字形は違えど、意識の深層へと無意識的に効果をもたらす。言語は人間すべてが互いに影響し合い、群体としての振る舞いを決めていく意思疎通手段として描かれる。そしてそれを自覚的に操る術を得たのが『虐殺の王』たるジョン・ポールである、と。

この「深層文法」という話や、脳と心のモジュール化については、明らかにチョムスキーからアイディアを得ている。SFに分類される本作だが、物語の根幹とも言える「虐殺器官」周りの発想はかなり社会科学的でもあり、こういう振れ幅が魅力なのだろうなと思う。

現代における罪と罰

旧版の帯に書かれていた言葉に、「現代における罪と罰」というものがあったが、この作品の主軸は結局のところそこにあるのだろうと思う。

911以降のテロと殺戮の時代における罪と罰。脳と心理に関する研究が進み、個人の意識に対する考え方がドラスティックに変化した時代における罪と罰。クラヴィスは感情をマスキングした上で遂行される自らの行為に対し、殺意があるのかどうか疑念を抱く。一方では意識を無くした母の生命維持を停止したことに対して、自分は母を「殺した」のではないかと思い悩む。殺意とは何か。あるいはどこまでが自己の意志と言えるのか。

殺意がない、殺したことに対する手応えがないという点では、自ら手を下すことのない自分も、クラヴィスも同じ立場だとジョン・ポールは説く。だが2人は同じ立ち位置にいない。クラヴィスが脳を「操作」した上で殺人に及ぶのに対し、ジョン・ポールは手を下してこそいないが、その判断は至って「正気」であり、自分の意識の下であることを自覚している。ジョン・ポールはその罪を自覚する。だからクラヴィスもまた、最終盤で虐殺の王となることを選ぶ。

罪とは、罪の自覚とは何か。それは選択を自ら引き受けること。心さえも生得的な、所詮は進化による産物だとしても、人は多くの選択肢から自らの行末を「選ぶ」ことができる。その選択に自覚的であること。地獄を頭の中で飼うということ。

地獄を頭の中で飼い馴らせ

正確には伊藤計劃のアイディアではないのかもしれない(どちらかというと円城的だなとは思う)が、『屍者の帝国』においても言語に関するアイディアが登場する。ここでもまた言語は人間の意識や魂と絡み合わされ、人間の実在に対して大きな意味を持つ。だが作中では、意識に対して影響する、広く伝播する、そして物質化する(書籍として)という特性は、言語としてあまりに当たり前のものではないかとも説かれている。

虐殺の文法が殺戮をもたらすと言うと実にSF的なアイディアではあるが、その実「言葉が人を扇動し、戦争や殺戮さえも引き起こすことがある」というのは、誰もがどこかで認識している話ではないのか。言葉と情報が、ミームが氾濫したこの時代において、純粋に自分の意志などというものは果たして存在するのか。メディアや他人の言うことに惑わされるなんて話は日常茶飯であるわけで、知らぬうちに影響された意識が判断を下しているのではないか。だが、「選んだ」のは最終的に自分である。罪は自らが自覚しなくてはならない。そしてその自覚こそが、逃れられぬ罰である。

地獄からは逃れられない。だって、それはこの頭のなかにあるんですから。