「気付き」の連鎖としてのTwitter

同じ経験をしたところで、それがすべての人にとって同じ意味を持つとは限りません。A君とB君は面白そうなある授業を取ってみた。A君は毎回授業で新しい発見をすることができ、順調に単位も取得できたけれど、B君は先生の話し方が苦手で嫌になり、内容をあまり聞かないまま、途中で授業に出なくなってしまった。ある経験の中で何に「気付く」かによって、経験は多種多様な意味を帯びるようになります。

だから、どんな経験であっても自分にとって有意になるかもしれないし、無駄になるかもしれません。それは実際に経験してみるまで、誰にもわからない。Amazonで☆5が連発されているような本でも、ひょっとしたら自分にとっては面白くないかもしれない。

どんな「気付き」が得られるかは、生い立ち、性格、興味関心、周囲の環境など、個別の要素によって異なってくるはずです。その中には自力ではどうにもならない部分もあります、きっと。だから「気付けるからエライ」とかすごいとかって話じゃなくて、みんなそれぞれ違うことに気付くから、面白い。もちろん、どんなことからも多くのことに「気付き」を得られることは才能の一つだと思いますけど。

ときに「気付き」は自覚的なものではないかもしれません。ある講演を聞いて、「うわーすごいタメになったなー!」と思ったとして、その時点では「私以外のみんなもきっと『タメになった』と感じてるんだろう」と、当たり前のことのように思い込んでしまうかもしれない。でも、ひょっとしたら周りの人は「つまんねーわ、この講演」と思っていたかもしれない。自分だけがその講演からなにか「気付き」を得られたことは、周りの人にとっては面白くない講演だったということを知って初めて、自覚することができます。

本を読むとか講演を聞くなんて特別なことじゃなくても、日常のあらゆる部分に「気付き」は潜んでいるかと。雨の日に店で傘袋を取ったときに、ふと何かに気付く。ウェブで動画を見ようとして、重くてなかなか読み込まないときに、ふと何かに気付く。気付けること、そしてそれを自覚できることは、それだけで価値のあることです。

そしてさらに言えば、それをTwitterやブログで世の中に発信していくと、また別の誰かが「気付く」きっかけを作れるかもしれない。Twitterは誰かの「気付き」であふれたツールだし、その「気付き」が連鎖して行くツールでもあります。その大半は些細なことなんだろうけど、まぁ些細なことこそ面白かったりするんですよね。ときには目から鱗の落ちるような発言にも出会えるし。誰か特定の人にだけ特別だった「気付き」が、もっと多くの人を気づかせていく。日常的につぶやいたり、ブログを書いたりしてると、そんなことを思います。