新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH (TRUE)² / Air / まごころを、君に

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または『REVIVAL OF EVANGELION』。

僕がエヴァを見始めたのはわりと最近の話で、大学生の頃、世間的には『序』の公開前後ぐらいにまとめて全部見たと記憶している。きっかけが何だったかは覚えていないが、とにかくショッキングだった。特に劇場版のショックは凄まじかった。傑作や名作と言えるかどうかは別にして、後にも先にも、これを越える衝撃を伴ったアニメ作品は僕の人生には現れない気がしているし、現れてほしいとも思えない。当時、 TSUTAYA でレンタルした DVD をリッピングして、まだ実家にいた頃だったので、昼間にガシガシ見るというよりは、夜中に布団に入りながらパソコンを開いてイヤホンをして、毎晩のように繰り返し遅くまで見ていた。まだ私的複製範囲のリッピングが規制されていなかった頃が懐かしい。特に『怒りの日』を用いた特報が本当に好きで好きで。あれ冬月先生の「まさか、ここで起こすつもりか?」って台詞だけなぜか2回入ってんですよね。なんでですかね。それと「まさか、○○か?」構文、庵野さん好きですよね。『シン・ゴジラ』でも大河内総理が「まさか、ここを捨てろというのか?」って霞が関から避難するとき言ってましたよね。あの映画、映像面もそうだけど、台詞回しと間の取り方が完全に庵野節でニヤニヤしちゃうんだよな。話が逸れたな。

そういう経緯なので、リアルタイムで鑑賞しているエヴァは新劇場版だけということで、旧劇場版が期間限定でリバイバル上映すると聞いたら、この期を逃すわけにはいかなかった。積極的に見たい映画かと言えば決して見たくはないのだが、この映画を劇場で鑑賞する経験は一度しておきたかった。細かい話をすると、あの『休憩 INTERMISSION』の間に本気で休憩してトイレに立つとかしてみたかった(実際、僕が鑑賞した劇場ではここで一度照明が点灯して本当に休憩になった)。間に休憩が入る映画ってたまにあるけど、僕が人生で出会ったのはこの映画が初めてだったので、そういう時間がとても新鮮で、どこか憧れがあったように思う。

今更この映画の感想を書いても、というところではあるけれど、ビデオで何度も何度も見た作品なのに、改めてインパクトが果てしなく大きい。メンタルにずんと重くのしかかる映画だった。1997、8年当時、これを見ていた人たちは正気を保っていられたんですかって心の底から疑問に思う。劇場で見て改めて気付いたのは、エンドロールが最後に流れるのではなく、『Air』『まごころを、君に』の間に挿入されるので、最後の「気持ち悪い」の後、その余韻のままに映画が終わって照明が点くのだ、ということ。あの放り出されるような感覚はもう笑うしかなかった。もう1回聞きたいんだけど、あれ見てみなさん正気でいられたんですか?

エヴァンゲリオンシリーズは、結果的にいまだに完結を見ない形となっているが、新劇場版と旧劇場版とでは、もうテーマがまったく違う、別物の作品になりつつある。旧劇場版は確かに一見わけがわからない、理解できない作品なのだが、その実意外にもコミュニケーションはしっかりしていて、サードインパクトによりすべての人間が LCL の海で一つになるという流れ自体は、言葉の端々から読み取れるように構成されている。またそのトリガーが碇シンジであり、彼の「みんな死んじゃえ」という思いがサードインパクトを引き起こし、しかし最終的に彼が、他者と一体化した世界では自分のアイデンティティすらも溶けてなくなることに気付き、他者と「もう一度会いたいと思」うに至ることで、事態は途絶するということも、きちんと説明されている。ミサトとの別れ、アスカの奮闘と敗北、 LCL 内でのアスカやレイ、ユイとの会話を通じて、シンジの感情が揺れ動いていく様もよくわかる。もちろん、幾度となくこの映画を見てきた人間としてのバイアスがあることは自覚しているが、『Q』に比べれば明らかに説明は成されているし、リリス、ガフの扉、黒き月といったサードインパクトのメカニズムさえ置いておけば、全体の流れを把握することは不可能ではない。

これは他者との関係性の物語だった。アスカを求めても拒絶され、他者に絶望したシンジが、それでも「誰もいなくなる」ことは違うと思い直し、他者の恐怖と改めて向き合い直す、そういう物語だった。そのテーマは、間違いなく強く映画の中に描かれている。

対して新劇場版においては、この「他者との関係性」の問題は『破』である程度クリアされたのではないかと思っている。上手く友人との和に溶け込めなかった式波の心の変化や、レイに旧劇場版では存在しなかった感情が芽生えたことなどを通して、他者との関係性については語り終えており、現にその後『Q』までのシンジには、他者に怯える描写がほとんどない。どころか、旧劇場版ではコミュニケーションを繰り返しても理解し合えない他者が描かれていたのに対して、『Q』はそもそもディスコミュニケーションに陥っており、他者との関係性が大きなテーマになる余地が薄かった。旧劇場版で示唆された、他人の存在を求めることにより、再び始まった「他人の恐怖」が顕現したものが『Q』の世界かもしれない。『Q』以後の新劇場版における関心は、他者 = レイやカヲルと触れ合うことを求めたシンジが、その結果が予期せぬ大きな喪失へ繋がってしまったことを知った後で、なおもどう生きるか、という別のところへ移っている。もっとも、『Q』におけるあんまりな仕打ちの結果として、またシンジが殻にこもる可能性もなくはないだろうが、『シン』予告編での顔つきを見るに、その心配も要らないのではないだろうか。

作中での時間軸ループが示唆されているように、ずっと堂々巡りをしていたようにも思えるエヴァという作品だが、実際のところはすでにそのループを抜けて、その先へ踏み出しているのだということを、改めて確認する機会になったように思う。それだけに、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が尚のこと見たくなった。

本来であれば『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が今年最初の、僕にとって最初のビッグタイトルとなって、今頃このブログにも感想を上げているはずだったのだけど、残念ながらそれは適わなくなった。まもなく1年を経とうとしている「コロナ禍」はまだ落ち着けるような局面には達していないし、ワクチンによる集団免疫獲得までの時間を考えると、おそらく短くてもあと1年はこういう生活が続いていくのだろうとは覚悟している。大きなイベントもなく、出来ず、家の中でずっと平らかな日常を続けている故か、年が変わってもその実感には乏しい日々を過ごしている。この感覚もまだ1年ぐらい続いてしまうのかもしれない。それでも、今年も良質なエンタテインメントに出会えれば嬉しいと思っているし、そのために出すべき金銭は、惜しみなく注ぎ込んでいきたい。今年は去年以上に意識的に金を使っていこうと思う。本に、アニメに、映画に、音楽に。僕が出来ることは限られているかもしれないが、その限りの中で出来ることはやり尽くしていきたい。