劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト

ネタバレは食らっていなかったんだけど、タイムラインでこの映画に関して2つの単語だけ事前情報食らっていて、その1つが「ワイドスクリーーーンバロック」だったのでだいぶ期待度の高い映画だった(ちなみにもう1つの単語は「セクシー本堂」。なお、このエントリーではネタバレを食らわせていく)。というのも好きで。ワイドスクリーンバロック。そもそもワイドスクリーンバロックが何か?というところは、いやーこの上ないわ、すげえわという感じのブログエントリーがあったのでそちらのほうへ。とんでもなく詳しくて丁寧なエントリーだなと思っていたら、自身もワイドスクリーンバロック的な作品を書かれる SF 作家である草野原々先生のブログで、これは失礼しました、という気分になったのはだいぶ後になってからだったり。

まぁ、好きと言っても、このエントリーに上がっている中で読んでいるのはベスター、ベイリー、中島(読むというか「観る」だが)ぐらいで、後者2人が特に好き、というだけなので、無茶苦茶このジャンルが好きと言っていいかはわからない。しかし、この二者に関しては無茶苦茶好き。無茶苦茶なSFが好きと言ってもいい。好き放題に風呂敷を広げまくる大法螺話が大好きである。

ところで「ワイド」ではなく「ワイ ド」であることには見に行ってから気付いた。この作品がワイドスクリーンバロックであるかどうか、については原々先生のブログでも言及されていることに同意するし、見終えた後の感覚は確かにワイドスクリーンバロック的ではあった。太陽系こそ股に掛けるわけではないが、各々の精神世界を自由自在に行き来して飛び回り、観客との第四の壁を越えて訴えかける様はワイドスクリーンバロック的と言っても良さそうではある。

では「ワイド」ではなく「ワイルド」と言葉をあえて換えたのはどういうことだったのだろう、ということを考えたとき、ここにこそ、この映画の核があったような気がしている。

ぶっちゃけ後半、レヴューが始まってからは心の中でずっと叫びながら観てました、という感じの映画だった。テレビ版のレヴューも好きだったけど、あれはまだまだ「演じる」という点である程度綺麗な型にハマっていたような感覚がある。今思えば。対して劇場版はそこからさらに個々人を掘り下げていく。剣を使った決闘とは言え、直に傷つける描写は一切なかったテレビ版と異なり、擬似的にとは言え出血を伴う皆殺しのレヴューが不穏さを醸し、そして香子の「表出ろや」を開幕の合図に、9人は本音をひたすらぶちまけ殴り合っていく。古川監督が語った 「河原に集まって殴り合う」「ヤンキーマンガと同じ手法」 とはまさにと言ったところ。何より台詞の尖り方が全然違う。仲の良い大場ななへ「殺してみせろよ」と啖呵を切る星見純那。常に高みからの余裕を崩さなかった天堂真矢が発する、ライバルへの本気の言葉「奈落で見上げろ」は、発声可能上映で黄色い悲鳴が上がるところを見てみたいという具合でなんともたまらなかったり(仮にコロナ禍がなくて発声可能上映が催されていたとしても、黄色い悲鳴は上がらんだろう、というのは知っている。知っているが。でも女性ファンも少なくないとも思っている)。そして映像、演出。怨みのレヴューの「セクシー本堂」とデコトラかからのベッドシーン(って言っていいだろう、あれは)へと落ち着いていく流れはワイルドスクリーンバロックの皮切りとして好き放題すぎるわけのわからなさで素晴らしかったし、魂のレヴューのバトル作画はこれ何の映画だっけ?って忘れるぐらいに動きも構図も演出もよかった。

で、何がワイルドかと言えば彼女たちの様がひたすらにワイルドだったわけである。むき出しの欲望。ポジションゼロから一度弾き落とされても、これからもずっと次の舞台を奪いに走り続けることを新たに約束する、これはそのための映画だった。テレビ版における「再演」、繰り返されるロンドの中で生きていた9人は「皆殺しのレヴュー」で一度「死んだ」が、しかし彼女たちの舞台少女としての人生がそこで終わったわけではない、ということを知らしめる、これはそのための映画だった。彼女たちが、自分がもう舞台の上にいることを受け入れるにあたってかじるトマトはさながら原罪のようでもあり、地下鉄 x 古川監督と言うところから自ずと想像してしまったが、「運命の果実」のようでもあった。また時期が時期でもあるので、シンエヴァとも比較してしまったところがある。シンエヴァは繰り返される物語に終止符を打ち、メインキャラクターを1人ずつ舞台から下ろしていく映画だったが、この映画は逆なのだ。物語が円環に閉じていたところを切り開き、「終わらせない」ことで「終わらせた」映画だった。

Image from Gyazo

(画像は 【予告編】劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト - YouTube から)

ところで、このブログにあるテレビ版の感想 アニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』 - キラめきの在り処 - the world was not enough の記事へのアクセスが最近少し増えていて、まぁ映画やっているんだしその関係だろう、ぐらいに捉えていたが、映画を見てみると手前味噌ながら、存外にこのエントリーとリンクしている部分があることに気付いた。このエントリーで、僕はこんなことを書いている。

愛城華恋の眼には、良くも悪くも神楽ひかりのことしか映っていない。自らのキラめきにフォーカスしたこの作品は、「舞台」をモチーフにしながらも一向に観客への目線が出てこないが、ひかりとの関係性を究極にまで高めた華恋が魅せたアンコールこそ、キリンが大興奮するほどに求めていたステージだったというのだから面白い。「観客の不在」は、彼女たちの意識が外に向かっていないという欠点ではなくて、なるほど、むしろ閉じたステージの上で繰り広げられる、誰も介入できない少女たちのキラめきこそ、我々が見たかったものなのだと言われると、それも確かにそうだな、と思えてくる。

当時も書いているが、この作品における「観客の不在」は悪い意味で捉えてはいなかった。なので今回、観客への意識が出てくるばかりか、第四の壁を越えてひかりと華恋がこちらと目を合わせる、という演出まで入るとは思わず動悸がした。

テレビ版の時点では、確かにあの形で正解だったのだろう。描かれた中心にあったのは華恋とひかりの関係性で、彼女たちの関係の成就をもってポジションゼロへと至るのならば、華恋の眼にはひかりだけが映っていればいい。しかし、アニメの中の物語、レヴュースタァライトという物語のその先へ華恋が踏み出すことを描くのならば、彼女は「こちら側」を意識して、1人の舞台少女として自立する必要があった。

華恋とひかりが、スクリーンの向こう側、観客の側へと眼を向ける演出は、映画館という劇場で見るからこその体験だったし、特にこのスーパースタァスペクタクルにおいては、スポットライトの使い方などをはじめ、実際の舞台を彷彿とする場面が多く、コロナで遠ざかってはいるが、演劇を見たいという気分にさせられた。自分も6週目になってようやっと見たというところではあったが、これは是が非でも「劇場」で見る体験をもう一度は味わいたい。